光彦チョコレート事件

 バレンタインデーのチョコレートは一切受け取りません。
 ――江坂光彦

 中学三年の二月になったばかりのとある日。光彦の机上に突然あらわれた画用紙大の看板には、極太の黒マジックでデカデカとこう書かれていた。朝、光彦より遅く登校した嵐は、その看板を見るなりしばらく、唖然とした表情で口をだらしなく半開きにしていたが、堰を切ったように腹をかかえて笑い出した。光彦はそんな嵐の様子を横目に、腕組みをしながら、むっつりと口をヘの字に曲げていた。
「っひーっ……ひっひっひっ……み、光彦…おま、お前……」
 と、嵐が顔を上げたところでまたその看板が目に飛び込んできて、再び、ぶはっと噴出すと、ヘタとしゃがみこみ教室の床をバンバン叩きながら笑い転げた。滅多に歯を見せて笑ったりしない嵐の、どうやらツボに入ってしまったようである。
「嵐……全然、面白くねぇぞ」
 と、光彦の地の底から響くような声。

 実際、光彦にとって最悪の日が訪れようとしているのだ。心底面白くない。
 中学一年、二十八個。中学二年、四十二個。間違いなく学年トップレベルであろうバレンタインチョコレートの数。男子生徒なら誰もが羨む色男ぶりであったが、光彦にとっては苦痛でしかない二月十四日がやってくる。
 下駄箱や机の中に、そっと忍ばせるくらいならまだいい。しかし、校舎の裏、屋上、階段の踊り場、校門の横の木の陰…一昨年、昨年と、様々な場所に呼び出されては、女子生徒と二人っきりになり、欲しくもないチョコレートを手渡され、媚びたような目で見つめられ、思い余って抱きつかれたりされたのだ。半径一メートル以内に女の影が入るだけで息苦しくなり冷や汗が出てくる光彦にとって、これは地獄の責苦であった。
 一年の時は、冷たくチョコレートを突き返したり、無視したりしたのだが、後に「○○の気持ちを受け取ってあげなさいよっ!」「そうよ、そうよ!江坂君、ひどいわ!」などと、友人ヅラした集団に詰め寄られ更に最悪な事態に陥ったので、二年のバレンタインは無言でそれを受け取ることにした。
 しかし、今年は――今年こそは、いい加減に勘弁して欲しかったのである。非難も軽蔑も重々承知の助、矢でも鉄砲でも持ってきやがれ、という覚悟で、光彦はこの無謀とも言える看板を掲げた。
 その後に登校してきた純生は、光彦お手製の看板を見てつかの間目を丸くしていたが、
「毎年、大変だね」
 と、フワリと笑って、何事もなかったように席についた。

 どちらかというと、『甘いマスク』にカテゴライズされる光彦の容貌。中三の時点で百八十を優に超える身長と浅黒い肌、やや下がった目尻とは相反して、ピッタリ十五の角度でキリリと整った太めの眉にシャープな線を描く鼻梁、下唇は厚く少し受け口気味で、そこがまたセクシー、と女子生徒の間では評判であった。
 毎年、光彦と陸上で全国へ行ったというちょっと顔のいい奴が、学年女子のチョコレートの殆どを掻っ攫ってしまうのである。然るが故に、この看板が大きな物議を醸し出すのは必然であった。
 やがて教室は不穏な空気に包まれた。ひそひそと囁き合う声、「何様のつもりだよ」と光彦の耳に充分届く声量で毒づく輩、はたまた「わあぁっ」と泣きだし机に突っ伏す女子生徒。ニ時間目が終わる頃には学校中に知れ渡り、昼休みともなると教室の廊下側の窓は黒山の人だかりであった。
 光彦の机の周りに陣取っていた嵐は、相変わらず目を三日月にして含み笑いを漏らしていたが、純生は黙々とパンを頬張りながらノートパソコンに向かっていた。光彦は、始終どこ吹く風で憮然と腕組みをしながら黒板を睨んでいた。

 ――そして、運命の二月十四日。
 流石に、下駄箱にも机の中にも欠片ほどのチョコレートも呼び出しの手紙も見当たらなかった。午前中、ホッと胸をなでおろしていた光彦であったが――ジャンヌ・ダルクは昼休みを告げる予鈴と共にやってきた。
 昼休み、騒然とする教室内に、バンッ、と力任せに引き戸を開けた耳を劈く轟音が響いた。教室内の目という目が、音のした方角に一斉に向けられる。それらの視線の先に立っていたのは、腰まで伸びた艶のある黒髪をなびかせ、両の手を腰に当て仁王のように憤怒の形相をした、『水上沙耶』であった。
 二つとなりのクラスに在籍する『水上沙耶』は、光彦ですら知らない顔ではなかった。容貌は純生には及ばなくとも、学校一の美女と呼ばれるにふさわしいものであったし、なにしろ、ティーンズ向け有名ファッション誌の専属モデルとして活躍していた彼女は、そのご高名を校内中に轟かせていたのであるからして。

 水上沙耶は、颯爽と肩で風を切りながら、一直線に光彦の机までやってきた。
 唖然と彼女を見上げる、嵐と純生。
 彼女は射るような視線で、真っ直ぐに光彦を睨みつけ、ガムテープで固定された看板をベリッと引き剥がすと床に投げつけた。
 半径一メートル以内。額にはジワリと冷や汗が滲み出ていたが、光彦は彼女を見ることなく黒板の方角に顔を向けていた。
「受け取ってもらうわ」
 そう言い放ち、麗しくも勇ましいジャンヌ・ダルクは、光彦の胸元に美しく包装された小さな箱を押し付けた。彼女の顔と光彦の顔との距離はすでに五十センチ以内、その右手のひらは、光彦の胸元に当てられたままである。
 光彦は、その表情にこそ変化はなかったが、はっきりいってフリーズしていた。
「何か言いなさいよ」と、ジャンヌ、もとい水上沙耶。息を飲み好奇の眼差しで刮目しているクラスメイトの面々。
 タラリと頬を伝った汗が唐突に光彦のシステムを再起動した。とにかく、この状況をなんとかしなければ窒息死してしまう。
 ガタリと勢い良く椅子を弾き席を立つと、胸元にあった小箱が机の上に落ちた。光彦は、水上沙耶とゆっくり向き合い、口を開いた。

「俺は……女が駄目なんだ」

 瞬間、純生は目を見開いて両手で口を抑え、嵐はあちゃー、と額に手を当てた。これでは『ゲイ』とカムアウトしたも同然だ。クラス中から「オーッ」と喚声が上がる。水上沙耶は微動だにせず光彦を見つめていたが、間も無く、興奮を押さえこむようにフゥと一息つくと、再び光彦に厳しい目を向けた。
「そう、江坂君、ホモだったの。相手は……コイツ!?」
 バッと純生を指差す。
「……えっ!? ぼ僕?」
 突然のご指名に、純生は狼狽した。
「いや、まだ男を好きになったことはねぇから、そうとも限らんがな」
「……女全部が受け入れられないなら、確かに、バレンタインなんて江坂君にとって茶番もいいとこね」
 水上沙耶は、うな垂れるように俯くと、「わかったわ」と小さく呟いた。そして再び光彦を見上げた彼女の顔は、美しい微笑みを湛えていた。
「でも、それは受け取ってちょうだい。初めての手作りなの」
 その瞳が、少し潤んでいたよう感じたのは光彦の見間違いだったか。水上沙耶は、潔く光彦に背を向けると、気高さすら感じさせる足取りで、一度も振り返ることなく教室を後にした。その美しい髪をなびかせながら――。

 彼女が去ってからしばらく、光彦は難しそうな顔をして考えこんでいたが、ポツリと、傍にいる嵐と純生にやっと聞き取れるような小声で呟いた。
「……ダチくらいにゃなれそうだな」
 光彦の口から思わず漏れた、女性へと送られた初めての賛辞。純生は、「カッコよかったよね」とニッコリ微笑んで相槌を返し、嵐は「ありゃ、いい女って言うんだ」と、フライングVの弦を軽く弾きながら無表情で言い放った。
 確かに、男らしい、ともいえる水上沙耶の告白劇であった。
 光彦は帰宅後、然して好物でもないチョコレートを、その最後の一粒まで、味わいながら食べたのである。

 中高一貫の学校であったせいか、高等部に上がってからもこの逸話は語り継がれ、バレンタインの時期になると必ず生徒たちの話題に上った。
 そして、光彦は高校三年間、『男』からもらうチョコレートに悩まされることになるのであった。
 合掌。
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