ウォーター・Cを奪還せよ

 散り始めた桜並木から落花飄々と花びらが翻り、まるで薄紅の豪雨のようであった。天気は晴れ。抜けるような空も、枝先に芽吹いた新緑も眩しく、ここ私立桜新学園は爽やかな初夏の薫りに包まれていた。
その風光明媚な景色と相反して。

「――僕、今日昼休みに絶対、トイレ行くからっ!」

 突然、鼻息も荒々しく、純生が二人にそう告げた。語勢はいつに無く強く、決死の覚悟を彷彿とさせる口調である。

「は?」
「ぁあ?」

 朝も朝、徹底的に朝。
 校門を潜った矢先、これから登校というのに、昼休みのトイレ行きを宣言する純生に、嵐と光彦は首を傾げた。冗談かと思いきや、笑い飛ばすには純生の様子が真剣そのもので。

「朝行きゃぁいいじゃねぇか」
 光彦の提案にぶんぶんと首を振り、
「知らなかった?僕、中等部の時から、トイレ行けなかったんだよ?」
 憂い顔で、声を少し震わせ訴えるように純生は云った。
「まさか!」
 トイレに行けない理由など想像できる筈もなく、嵐は思わず声を張り上げた。
「休み時間ごとに変わりばんこでトイレの前で見張ってる人がいるの。入ろうとすると……凄い眼で睨むんだ……」
「なんだぁ、ソレ。新手のイジメか?」
 右の眉尻を吊り上げ、呆れた調子で光彦が云う。
 純生は『イジメ』という言葉にビクリと肩を揺らし、
「やっぱりイジメられてるんだよね、僕……」
 と、睫毛を伏せ黙り込んでしまった。

 常にビクビクと怯えた小動物系の純生が、イジメの標的となるのは確かに納得できる。増して保護者二人が今は遠く、頼れる距離にいないのだ。肩を落としトボトボと歩く純生を見兼ねて、嵐が口を開いた。

「いつもどうしてるんだ?」
「……視聴覚室横のトイレへ行ったり、教員専用に潜り込んだり……」
 最初の勢いは何処へ消えたか、純生は独り言のようにボソボソと呟いた。
「視聴覚室ぅ?B棟じゃねぇか。腹でも壊したらどうすンだよ」
「お、おなかなんて壊したら一巻の終わりだよっ!見て、これ」
 純生は恥じらいつつもブレザーのボタンを外し、シャツの隙間からチラリ、と下腹部を見せた。合わせ目の僅かな隙間からは淡いピンクの――所謂『ハラマキ』という毛織物が覗いていた。
その痛々しさに止め処なく同情心が湧き出し、嵐が、「援護してやるよ」と純生の肩を軽く叩いた。光彦は、
「お、喧嘩か?喧嘩だな?」
 と、江戸っ子張りの盛り上がりで、その表情を輝かせた――。


 そして昼休み、目の色を変えて購買に走る生徒達で廊下は騒然としていた。
 嵐と光彦は廊下で合流し、純生の教室へと急ぎ向かった。光彦はすでに出入りモードで、人込みをブルドーザーのように押し避け、肩を怒らせ突き進んでいく。嵐は光彦の開墾した道をただ辿っていたが。

「あ」
「いてっ」
 突然立ち止まった光彦の背中に、嵐は思い切り鼻頭をぶつけた。「なんだよ」と、涙目を擦りながら光彦の背中越しに先を見ると。
 男子トイレのドアの前で純生を取り囲んでいたのは、芳しきを纏った如何にもお嬢様風、な女生徒四人組であった。


「と、通してくれませんか……! 僕、トイレに行きたいんです……!」

 すでに戦いのゴングは鳴らされていた。しかし、純生の蚊の鳴くような細い声は、昼休みの騒音に掻き消され彼女達の耳に届いていないようである。四人組は、純生を圧殺するが如く人壁を作り、
「ダメよ。根岸君にトイレなんて似合わないわ」
 と、冷酷無情にも言い放った。蒼白たる純生の、蚤の心臓が爆発寸前なのは、一目して明らかであった。

「嵐、頼むわ」
 光彦は嵐の背後に回りこみ、両手でその背中をグイと押し出した。女相手と分かった途端に顔色を失う光彦に半ば呆れ、嵐は大きく溜息をついた。


「――似合う似合わないの問題じゃないだろう!?」
 力強い嵐の叫び声が廊下に反響し、衆目が一点に集まる。と同時に、女生徒四人組の険悪な眼差しも、そして純生の期待を孕んだ熱視線も、一斉に嵐に向けられた。ギターを背負ったヒーロー登場の瞬間である。
 片や光彦は五メートルほど離れた階段の入り口で、巨体を隠し壁から首だけ出して様子を窺っていた。

「トイレくらい行かせてやれよ。可哀想じゃないか」
「…そうだそうだ! 可哀想じゃねぇか! 人でなし~!」

 嵐はズカズカと三人に歩み寄り、声を荒げた。しかし負けじと
「ダメ! 根岸君みたいに綺麗な男の子が、トイレなんて絶対許せない!」
 中心にいた少女が甲高い声を張り上げた。「そうよダメよ!」「絶対許せない!」と、何時の間にか嵐を取り囲んでいる複数の女生徒達から大量の間の手が入る。辺りを見回し、どうやらイジメではなく度を越した純生ファンクラブと見取った嵐は、会員番号一番らしき女生徒に再び向き合うと、
「勝手なこと云うなよ。純生だって人間なんだから、な?」と、諭すように云った。
「…そうだそうだ!純生だって○○もすりゃ○もするぞ~」

「――根岸くんは人間じゃないわっ!」

 その常軌を逸した一言に、嵐は唖然と口を開いたまま固まってしまった。壁に隠れ野次を飛ばしていた光彦も同じく固まっていた。が、次の瞬間。

 ――パンッ!

 その場に居た誰もが我が目を疑った。まさか、『あの』純生が、と。
 中心にいた女生徒の頬を、純生の右手が勢い良く弾いていた。周囲から大きなどよめきが湧き上がる。

 女生徒は驚愕に目を見開き、左頬を押さえ呆然と純生を見つめていた。しかし、一番驚いていたのは、他ならぬ殴った当人である。純生は、暫し右手のひらを凝視しその場に佇んでいたが……顔を上げ潤んだ双眸に怒りを孕ませ、開口一番。
「僕だって……人間だからぁっ!!」
 中等部三年分の恨み大爆発。純生は、そう云い捨てると、人込みを掻き分け屋上へと続く階段を一目散に駆け上っていった。
 一同は純生の背中が手摺の影に隠れるのを見届けると、蜘蛛の子を散らすように四方へと消えていった。

「窮鼠、猫を噛む……ってヤツだな」
 何処からとも無く現れ、分かった風な口を利く光彦に、嵐が氷点下の一瞥を投げた。
「なんだよ」
「案外、純生の方が……」
 嵐は咽の奥に続きを飲み込んだ。
「なんだよ。云えよ」
 不機嫌極まりない様子で、光彦が先を詮索する。
「メシ。食おうぜ――」

 屋上手前にある階段の踊り場、暗がりにひっそりと膝を抱え座り込んでいる純生を見つけ、
「……なぁ。腹へったよなぁ?純生」
 と、嵐は純生のランチボックスを目の前でちらつかせて見せた。
嵐の袖口を弱々しく掴みフラリと立ち上がると、純生は今にも泣き出しそうな声音で、
「痛かったかな……」と、呟いた。
「いいんだよ、あれくらいヤんなきゃ分かんないだろ?」と、嵐。
 光彦は所在無さ気にずっと明後日の方角を見ていたが、やがて純生の頭をクシャクシャと乱暴に撫でた。
「そうだよね……」
 純生は照れた笑みを零し、これにて一件落着となった。

 ――購買でパンを買い損ねたことに光彦が気付いたのは、その直後のことであった。
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