仁義無き光彦

 ボールカゴ、コートブラシ、ハードル、ラインマーカー、バッティングゲージ――。
 体育の授業で見慣れた諸々もグラウンドにあってこそ。薄暗い体育倉庫内に雑然と置かれたそれらは、天井から一灯だけぶら下がる白熱ランプにチラチラと照らされ、如何にも陰気臭い、湿った空気を纏っていた。
 中央に敷かれた運動用マットの上には『ドンブリ』が二つ。それぞれを囲むように五人づつ、男子生徒が顔をつき合わせて座っており、白く滑った光を放つ丼底を、微動だにせず睨み据えている。
 嵐と純生は、隅に置かれた観戦用の青いベンチにちんまりと座り、胡散げな顔付きで、任侠映画さながらの光景を見つめていた。

 光彦は跳び箱の最上段を椅子代わりに、高い位置から眼光鋭く周囲を一睨みすると。
「――始めな」
 その一声を合図に、賽は放たれた。
 グラウンドから間断なく聞こえてくる、スポーツに青春をかける若人達の掛け声。戛然とした硬質な音色とその叫声は、見事なまでの不協和音を奏でていた。


 それは、素潜り丸二週間目の金曜日。つい今朝のこと。
「あ……。俺、今日からシキ立てるから、お前ら先帰ってていいぞ」
 学校最寄駅の改札を抜け、朝のスイッチが入ったらしき光彦が、実にあっけらかんと云い放った。
「えぇ? 一緒に帰れないの?」
 途端に、純生は不安に眉を顰めた。
「賭場のことか?」と、嵐。
「あぁ、随分休んじまったからそろそろ開けねぇと。ショボいテラ銭でも、昼飯代くらいにゃなるからなぁ」
「これから毎日?」と、純生。
「サンパチ。三と八の付く日だけ」
 顔を見合わせる二人を横目に、
「小遣い貰ってねぇんだから、許せよ」
 微かに唇を尖らせた光彦の口調は、珍しく遠慮がちであった。

 純生は、入学案内の小冊子から抜け出たモデルのように、きっちりと制服を着こなしている。『ひろさん』のお陰で、シャツに糊の効いてない日は一日足りとも無い。
 一方嵐は、学校行事で止むを得ない場合を除いては、頑としてブレザーを着用しない。一張羅のライダースを羽織り、シャツのボタンはヘソの辺りで二、三個辛うじてとまっているだけ、覗いた胸元には銀製のクロスが鈍い光を放っていた。ド金髪といい、フライングVといい、歩けばチャラチャラと音を立てる腰から下げられた謎の鎖といい、どっからどう見ても私服である。

 そして、光彦。その制服の着崩し方は、到底高校一年生に見えないほど堂に入っていた。ブレザーの前は全開、ネクタイは申し訳程度に結び、左手はズボンのポケットの中がデフォルト。古びたブックバンドで纏め上げた教科書を担ぎ、肩をそびやかして歩く。隙のない立居振舞いは、長ドスでも持たせれば如何にも『出入り』前、である。それもその筈、中等部時代、鉄火場で頻発する揉め事をその腕一本で諌めてきたのだ。襟の校章が、唯一光彦の年の頃を証明していた。
「…ほとんどヤクザだな」と、嵐。純生も傍らで小さく二回頷いた。
「やめてくれ。今時、流行んねぇよ」
 お前にだけは云われたくない、と心から思う光彦であった。

 一緒に登校→一緒に昼飯→一緒に下校→一緒に塩田家でまったり――。
 高等部に上がってから二週間の間、三人はこのフローを完璧に実行してきたのだ。突然、突き放すように「先に帰れ」と光彦に云われ、純生は戸惑うばかりであった。
 久しぶりに大音量でギター三昧――の夢に、嵐が酔い痴れた矢先。
「ぼ…僕らも行っちゃダメ?」
 光彦の袖口を掴み、おずおずと純生が云った。
「賭場に? ……別に構わんが」
「……”ら”って……俺もかッ!?」
 巻き添えを食らったと気付いた嵐が、仰天して純生を見た。
「だって、一人じゃ怖いし」
 お願い、と両手のひらを合わせる純生に完敗、嵐の全身は虚脱感に包まれる。
 光彦は、眉を片方づつ上下させ二人の顔に視線を投げると、「観るだけにしとけよ」と、一言付け足した。
 結果、この『光彦と行く放課後鉄火場ツアー』が実現したわけである。

 光彦の仕切る鉄火場は、放課後、運動部員が倉庫から用具を持ち出した直後に開帳され、夏場は二時間、冬場は一時間半きっかりに閉帳される。
 行われる博打は光彦の気分によって変わるが、基本的には『ピンコロガシ』。サイの目は一天地六、古来より一の目が最強とされている。『ピンコロガシ』は、その『一(ピン)』を出したものが勝ち、という至極単純なゲームである。

 賭場常連は、始業前や休み時間に人目を忍び、廊下にある光彦の鍵付きロッカーから、通しナンバーの入ったプラスチック製の丸い札を取り、テラ銭として五百円玉を据え置かれたコブタの貯金箱に入れる。限られた枚数しかないその札が、入場券代わりとなるのだ。
しかし、賭場への第一歩である『ロッカーの鍵』――これを入手するまでが、一苦労なのである。
 まずは、常連の紹介ありき。次に、住所・氏名・学年はもとより、趣味、毎月の小遣い、親の職業、クラス内の評判まで徹底的に調査される。このあたりの雑務は、自称『江坂さんの舎弟』連中が請け負い、最終的な参加の可否決定権は光彦にある。金銭的に余裕があり、負けが込んでも、密告・窃盗・暴力に走らない者が厳選されるのだ。
 選ばれた生徒だけが参加を許される、云わば、私立桜新学園『紳士の社交場』…の割には、見るからに柄の悪い、素行不良で有名な札付きが半数を占めていた。



(……光彦はやらないの?)
 嵐の耳元に顔を寄せ、純生が囁く。
(みたいだな……あれ、元生徒会じゃないか?)
(確か、去年の副会長)
(アッチは……運転手つきの車で学校にくるやつだよな)
(……どっかの社長令息だったっけ?)
 物珍しさも手伝って、嵐と純生は興奮気味にひそひそと囁きあっていた。と、その時。

 『峰』の紫煙を燻らせていた光彦が、スルリと跳び箱から降りた。
「沢村」
 静穏とした佇まいは、不気味な威圧感を醸し出していた。倉庫内は一瞬にして重苦しい空気に包まれ、賽の音がピタリと止む。光彦の巨体が照明を遮り、マットの上に漆黒の影を落とす。沢村と呼ばれた男子生徒は蒼白として、恐怖の余りか硬直し、黙然と項垂れていた。嵐も純生も沢村同様、周囲を圧倒する光彦の存在にすっかり気圧され、固まってしまった。

「そのグラ賽、どうした?」
 傍らに腰を落とし、光彦はおもむろに沢村の鼻先へと手のひらを突き出した。沢村は震える手をようようと動かし、持っていたサイコロを光彦に手渡すと、
「……ここのところ負け通しで……すいません、出来心ですッ……!」
 辛うじて咽から搾り出した謝罪の言葉は、語尾が裏返っていた。
「てめぇン時だけ、音が違うんだよ」
 光彦は怒気満面と――ではなく、口の端を吊り上げニヤリと笑って見せた。余裕綽綽たる態度が、ことさら恐怖心を煽る。

 グラ賽――。悪賽、手目賽とも呼ばれる。つまり、決められた目を出せるよう細工の施された、イカサマ用のサイコロのことだ。無論、鉄火場にイカサマなど言語道断。光彦は、開帳僅か数分、沢村がほんの数回サイを投げたところでイカサマを看破したのである。
 沢村は丼底に名残惜しげな視線を落とすが――やがて力無く学生鞄を取ると、天命を待つまでも無く、マット上にチップを残したまま出口へと向かった。狛犬のように待機していた二人の男子生徒が鉄製の扉を開いた刹那、寂寞とした一陣の風が各々の頬を撫でた。そして、閉まると同時に、何事も無かったかの如く、季節外れの風鈴のような音が、再び賭博場に鳴り響くのであった。

(ぼ僕、トリ肌立っちゃった)
 背を丸め、自らを掻き抱くようにして縮こまり、純生は本気で怯えていた。
(……人殺してるって云われても、信じちゃうよな)
(音の違いなんて、分かった?)
(俺の絶対音感を持ってしても、無理)
 嵐はふるふると首を左右に振った。

 腕組みをしたまま屹屹と動かずに居る光彦と、ひたすら無言でサイを振り続ける面々。肌を刺すような空気に居た堪れなくなり、嵐と純生は互いの脇腹を小突き合うと、息を合わせて席を立った。壁沿いをコソコソと歩く二人の気配に気付いた光彦が、
「六時くらいには、お前ン家にいくわ」
 オクターブ上がった気軽いその口調に、二人は一先ず胸を撫で下ろし、鉄火場を出た。

 圧制者たる光彦の容相を反芻しては驚異し、言葉も無く西口商店街を歩いていた二人であったが、
「光彦、怖い……」
 ポツリと、純生が呟いた。
「寝起きどこの騒ぎじゃないよ。ヤクザっていうより……江坂親分…?」
 『ミキちゃん』に継いで、光彦の新たな愛称が誕生した瞬間であった。


 グラウンドと校舎を別つように通された、体育館へと続く渡り廊下。その柱に身を凭れさせ、ジャージを羽織った一人の男子生徒が、帰宅の途に就いた光彦を待ち構えていた。レーシングパンツからは、陸上選手特有のストイックさを窺わせる、筋肉に薄皮を貼りつけたような陽焼けした脚が伸びていた。

「またお前か」
 光彦は、少年を見て取るなり如何にも面倒臭そうに顔を顰めた。
「なぁ……。返事訊かせてくれよ。俺、随分待ったぜ?」
 真摯な眼差しに情を引かれ、光彦は諦めたように溜息を吐いた。
「分かったよ」

 その日、光彦が嵐の部屋に姿を現すことは無かった。
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