Ready! Steady!! SEX!!!

 一時停止したビデオ映像のように、表情も動作もフリーズしてしまった二人を、光彦は気にする風でもなく『峰』に火を点した。一口、大きく吸い込むと、天井に向けて細い煙を吐き出す。
 嵐と純生が光彦の言葉を脳内で噛み砕き、正確にその意味を把握するまでに、置時計の秒針は一回りした。

「――誰とッ!?」
 衝動に駆られ、嵐は思わず叫んだ。訊かずにはいられなかった。嵐も純生も、光彦に限って女性との関係などありえない、と確信していたのだ。
「篠原」
「篠原って……あの、短距離で全国いった陸上部の篠原輔(タスク)か?」
「ああ」
「中等部時代、光彦とチョコレートの数、争ってた人……?」
「その、篠原」

 淡々と受け答える様は、だからなんだ、と云わんばかりであった。チョコレート事件の時、それらしき空気は感じ取っていたものの、実際に光彦の相手が現れたとなると、出し抜けに話は現実味を帯びる。嵐と純生は、美しいストライドでグランドを駆け抜ける、篠原の姿を想起した。光彦と篠原輔が、裸で――。

「うわッ!!」

 突然、嵐が悲鳴を上げた。口許まで運んだコーヒーカップから、まだ充分に熱度のある液体が、タラタラと垂れ落ちていたのだ。湯気を立てながら、嵐のジーンズに黒い染みが広がっていく。
「あち、あちッ! わわわ……」
 足の付け根、つまり、男の子にとって極めて大事な部位が、火傷の危機に晒されていた。ガチャリと音を立て乱暴にカップをテーブルに置くと、嵐は飛び上がって立ち両手で股間を扇いだ。
「だ、大丈夫?」
 純生が、心配げに声をかける。
「早くジーンズ脱げよ。火傷すンぞ」

 もちろん、光彦の一言も純粋に心配からであった。しかし嵐は、光彦に懐疑的な視線を投げた一瞬後、ガバッと背を向けてしまった。今、光彦に股間の心配をされるのはツラ過ぎる。ハンガーラックから新しいジーンズを掴み取り、嵐は急いでドアの外へ出た。
「ららら嵐ッ! 置いていかないでッ!」
 嵐の怯えが純生にも伝染したようである。天敵の匂いを嗅ぎ取った小動物さながらにピョンと跳ね上がると、純生とは思えないほどの素早さで嵐の後を追った。
「……ナンだぁ?」
 光彦は片眉を吊り上げ、慌てふためいて母屋へと消えていく二人の背中を、呆然と眺めていた。


 バスルームの狭い脱衣所で、純生は思案顔で行きつ戻りつしていた。背後ではシャワーの水音。万全を期して冷水に局部を晒している、かなり間抜けな嵐の後姿が、洗面台の鏡に映っていた。
 バスタオルを腰に巻きつけただけの濡れそぼった嵐が、大事に至らずに済んだのか、安心したような表情でヌッと純生の前に現れた。
「や……なんか着てよ」
 純生が頬を赤らめ俯く。男同士だろ、と口を衝いて出そうになった言葉を、嵐は呑み込んだ。衝撃の告白、その直後、生々しい想像が二人の脳内を駆け巡っており、なんとなくきまりが悪い。嵐は「ごめん」とだけ返すと、パーカーを無造作に頭から被った。
「逃げてきちゃったけど……光彦、傷ついたかな」
 純生にそう云われて、嵐の心がチクリと痛む。
 いつかこんな日が訪れるだろうと漠然とした予感はあった二人だが、連んで十年目とは云え、まともな会話を交わし始めたのはつい二週間前のことである。光彦の告白は、あまりにも突然すぎた。
「……とにかく、戻ろうぜ。このままってワケにはいかないよ」


 ガラステーブルを挟んで光彦と向かい合い、二人は神妙にかしこまった。光彦との距離は、告白前に比べ微妙に遠い。まるで、結婚を父親に認めてもらうべく実家に訪れた、若いカップルのようであった。
「話を聞こうじゃないか」
 爛々と異様な光を放つ目で光彦を凝視しながら、山積する質問事項を、混乱気味の頭をフル稼働させ嵐は必死に整理していた。
「なに正座してんだ?」
 どうやら光彦にとって、先刻の告白劇は取り立てて気に留めるほどの出来事ではないようであった。

「し……篠原輔と、付き合ってるのか?」と、嵐。
 純生は、嵐に身体をすり寄せるようにして座り、じぃっと聞き耳を立てている。
「付き合うって、恋人かどうかってことか? ……いや、別に付き合っちゃいねぇよ」
 嵐は「でも」と続けた後、一呼吸置いた。
「……セ……セセ、セッス……
「セックスかぁ? あぁ、した」
 気を揉むのが馬鹿らしく思えてくるほど、光彦は公然と言い切った。

 セックス――その一言の、妙な湿度を孕んだ毒気に中てられ、二人は俯いた。光彦の顔を正視できない。

「篠原のこと、好きなんだろ? だから……」
「嫌っちゃいないが……愛だの恋だのって感情は、今ンとこねぇな」
 たとえ男同士でも、特別な関係に及ぶからには、それなりの情が伴うのだろうと考えていた二人は、光彦の意外な返答に困惑を深める。
「じゃあ、なんでそんな関係になったんだよ?」
「篠原がそう望んだからだ。俺も男の身体、試してみたかったしな」
「試してって……光彦、ソレ酷くないか?」
「それでもいいっつってんだから、問題ねぇだろ?」
「お、男同士って、そういうもんなのか?」
「さあな」
 暫しの沈黙。
「で……どうだったんだ?」
 恐る恐る、嵐が尋ねた。
「気持ち良かったぞ。アイツ、メチャメチャ巧いでやんの」

 陸上部期待の星、篠原輔は床上手――という事実は、ジュッと音を立てて嵐と純生の脳裏に焼きついた。

 嵐は正座を崩し、降参とばかりに何度目かの大きな溜息を吐いた。
「ウチの女子は悲惨だな……。ツートップが揃ってホモかよ」
 聞くなり、光彦が初めて無表情を崩し不愉快そうに顔を曇らせた。”ホモ”の一言に反応したらしい。
「なんだ? サベツか? 嵐、サベツは良くないぞ」
「差別とか、そういうんじゃなくって……なぁ、純生」
 純生は、首をぶんぶんと縦に振った。蒼褪めた純生の形相をしげしげと見て、光彦の右脳が珍しく機能した。
「なるほど、貞操の危機ってワケか。お前等、ナニ考えて……ん?」
 キャッと小さな悲鳴を上げて、純生は慌しく嵐の背後に回り込んだ。
「らん~、光彦がヘンな目で見たよぉ」
「んんん……?」
「お、俺を見るなッ!」
 嘗め回すような光彦の視線は粘りを帯びて、如何にも品定めしているようであった。二人の背筋に悪寒が走る。たじろぎ後退る、嵐と純生のあまりの怯えように、光彦は堪らずくつくつと苦笑いを漏らした。
「ま、安心しろ。お前らにいちいち勃起してたら、俺の身が持たねぇよ」
「ほ本当だな?」
「ああ」
「いきなり襲い掛かったりするなよ!?」
「するか。そこまで飢えてねぇよ」
 二人がほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、「いいか」と、光彦は重々しい口調で先を続けた。

「俺はな、オンナがとにかく駄目なんだよ。それは中学ンときから分かってるんだぜ? 考えてもみろ。性欲っつったら三大欲求の一つだし、これで男も駄目だったら俺の人生悲惨だろ? 可哀想だと思わねぇか? 思い立ったが吉日、義を見てせざるは勇なきなり……つまり、そういうことだ」

 一気に捲くし立てられ、嵐も純生も、なんとなくだが納得してしまった。いや、煙に巻かれた、と云う方が正しいか。

 嵐も、純生も。邪な目で見れば、光彦にとって十二分に魅力的な存在であり、性的関心が全く無いといえば嘘になる。しかし光彦は、この完璧な正三角形を崩すつもりは無かった。とりあえず、今のところは。

 四月も終わりに近い日曜日。
 光彦が『セックスしてた』と言ったから、今日は光彦のカミングアウト記念日。
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