チェリー・ストライカー
「いらっ……」言いかけて嵐は、名入りの箸袋に割り箸を差し込む作業の手を、ピタリと止めた。
「……しゃいませ……」
「アラッ!? 陽平ちゃん、新しいバイトの子、入れたの?」
入り口付近の天井に埋め込まれた、三灯のダウンライトに浮かび上がった卵形の白い塊りが、人の顔だと気付くのに、たっぷり二秒を要した。光彦とほぼ入れ代わりに縄のれんを潜ってきた、嵐にとって初めての客は、年齢不詳の女性であった。
顔一面に塗りこまれたファンデーションは舞妓さんの白粉さながら、両眉は定規で引いた線の如く額にくっきりシンメトリーを描き、アイラインは、いっそ歌舞伎の隈取りと比喩したほうが相応しい。
ハレーションとモアレを同時に引き起こしそうな柄のタイトスカート、ぱっくり胸元の開いたブラウスは、死語・ボディコンシャスの一言で片付けるには、あまりにも無茶な肉の詰め込み方をしていた。
彼女は、粘り気のある視線を嵐に投げかけながら迷い無く歩を進め、一番奥まったテーブル席に腰を降ろした。
彼女が、ネオン花咲き乱れる夜の繁華街に舞う蝶だということは、一目瞭然であった。しかし、それも大人フィルターを通して見ればの話。この世に生を受けて僅か十六年、嵐にとっては、未知との遭遇としか言いようが無い。
もっとも、ファッションに関して人にとやかく言えた立場ではない。嵐は、気を取り直してテーブルに歩み寄り、恐る恐るではあるが、彼女におしぼりを差し出した。すると、妖艶な流し目が返ってきた。
「ねぇ金髪君。お名前なんての?」
「塩田でぅわわ……ッ!」
不意に、内腿から尻にかけて撫で上げられ、嵐は奇声を上げて飛び上がった。予想以上の過敏な反応に気を良くしたのか、彼女は、悪戯盛りの子供のように嵐を指差して、カラカラと笑った。
「なッ……何するんですかッ!」
頬を紅潮させて尻を両手で庇いながら後退る嵐を、愉快でたまらないといった風情で眺める彼女に、
「玉江さんッ! ……頼むよ」
と、陽平の叱声が飛ぶ。
「いやだぁ、ほんの挨拶よ。陽平ちゃん、久保田の千寿。冷やでね」
タマエと呼ばれた女は、陽平の一喝をさらりと流し、悠然と細巻きの煙草に火を点けた。
逆ならまだしも、男の尻など触って何が楽しいのか。玉江にとってはほんのスキンシップ、しかし経験値ゼロの嵐には、不可解の極みである。嵐は、次の攻撃に備えて不自然に腰を引いた体勢のまま、枡入りのグラスになみなみと注がれた日本酒を、玉江のテーブルへと運んだ。
「ホッケとねぇ、イカの一夜干し……マグロのサイコロステーキ、ツブ貝のつぼ焼きでしょ。それとね……」
聞き漏らすまいと耳をそばだてて注文用紙に鉛筆を走らせていた嵐は、十品も越えようという時、ふと手を止めて怪訝そうに玉江を見た。どう考えても、女性が一人で食べきれる量ではない。
「こんなに……?」
「そうよ、お腹ペコペコなの」
玉江は、両肘で胸を寄せ上げるようにして、テーブルに頬杖を突いた。しかし、嵐の関心はすでに注文用紙にあり、狙った反応を得られず拍子抜けした玉江は、つまらなそうにグラスを口に運んだ。
カウンター越しに見える調理場は、業務用の二槽シンクと、主に刺身を調理する際に用いられる作業台との間を、辛うじて人一人が通れるほどの広さしかない。築三十五年、空調の行き届かない『よっちゃん』に於いて、煙の出る炙り物や焼き物は、藍染めの長暖簾の先にある裏口に面した厨房で調理される。
玉江の注文した品は、焼き物ばかり――。
陽平は、探るように玉江を見てから、長暖簾を両手で跳ね上げ、奥の調理場へと消えた。
有線から流れる『無法松の一生』が、突然ボリュームを上げたかのように、嵐の耳にくっきりと聞こえてきた。心細さを紛らわすため仕事を探してうろつきまわる嵐。また何かされはしまいかと警戒して、チラチラと玉江を盗み見ては、意味有り気な視線とかち合って、慌てて俯く。その繰り返しで、一時を過ごした。
ほどなく、背後から引き戸の開く音がして、嵐は地獄に仏とばかりに安堵の息を漏らし、戸口に顔を振り向けた。と、同時に、
「みっちゃ~ん、元気だった? 半年ぶりねぇ」
手のひらをそよがせて、歌うように光彦を呼ぶ玉江。
光彦は、かのギリシャ神話に登場する怪物メドゥーサに睨まれたように身も貌も石化させ、入り口付近で茫然と佇んでいた。その顔色が、みるみる蒼褪めていく。もとが浅黒い光彦の顔が、青黒く変色していく様は、ちょっとした見物であった。
そして、関節の油が切れたのかと懸念するほどぎこちない動作で、回れ右――光彦の影は、あっという間に縄暖簾の向こうに消え去ってしまった。
「……いつもああなのよ、酷いわよねぇ」
肩を竦めて同意を求める玉江に引きつった笑みを返して、嵐は光彦が開け放していった戸口を静かに閉めた。
学校で女生徒を前にした時とは比較にならない、玉江の、胸の起伏を自慢げに強調したファッションでは、光彦の激しい拒絶反応も仕方なかろう。
陽平は奥の厨房に。光彦は、多分戻ってこない。これも試練のうちか――。
景気付けに、むん、と胸を逸らし、嵐は、なるべく玉江を視界に入れないようにして、もう何度拭いたか分からないテーブルの上に布巾を走らせた。
「ちょっと、金髪君! トイレットペーパーが切れてるわよぉ」
調理の進み具合を窺うようにカウンターから身を乗り出していた嵐に、玉江から声が掛かった。
「あ、はい。お待ちください」
トイレットペーパーの置き場所など教わっていないが、洗面台の棚の中と相場は決まっている。陽平の手を煩わすほどのことでもない、無ければまた訊けば良いのだと、嵐は『御手洗い』の札が掛かったドアを開いて待つ玉江に、誘われるようにして洗面所に入った。
狭い洗面所の中は、消臭剤と玉江のきつい香水が化学反応を起こしているようであった。入り口を塞ぐようにして立つ玉江に気取られないようエプロンの裾を鼻に当てて、嵐は、まず洗面台の下の戸棚を開けた。
無い。中には清掃用のブラシと洗剤があるだけだ。
残るは――。
嵐は立ち上がって、眼よりやや高い位置にある吊り戸棚の取っ手に手を掛けた。
「え」
胴回りに、不穏な風を感じて、嵐は身を硬直させた。
玉江に背後からTシャツとエプロンを一纏めにたくし上げられて、正面の鏡に映ずる己の姿は、万歳をしたまま腹を露出した、実に間抜けな格好であった。
慌てて身を翻すと、玉江は、素肌を晒した嵐の鳩尾に勢い良く両胸を押し当てた。迫りあがった肉の塊が、今にもブラウスのボタンを弾き飛ばしてしまいそうである。妖光を宿らせた二つの眼は、射抜くように嵐を見ていた。
全身の毛穴が、音を立てて開いたような気がした。
「え、え?――えぇえッ!?」
「君、まだ経験したこと無いでしょう、お姉さんじゃダメ?」
そう言われてようやく、嵐は己の置かれた危機的状況を把握することができた。ブラウスから覗く玉江の胸の谷間が、奈落の口のように蠢いている。悪寒が、腰椎の辺りから背中一面へと拡がっていくのが分かった。
驚天動地の大事件――チェリー嵐には、そう例えても決して大袈裟ではないほどの衝撃であった。
洗面所とトイレを別つ間仕切りに両肩を押さえつけられ、玉江はさらに肉体を摺り寄せてくる。逃れようと必死にもがくが、気ばかり先に走って思うように四肢を操作できない。嵐は、完全な惑乱状態に陥っていた。
「わわわ、ちょッ……」
「大丈夫、料理ができる前に終わるわ」
「そ、そういう問題じゃ……わぁッ!」
股間に伸びてきた手を愕然を見て、身を捩ってガードする。しかし玉江は、神技に等しい指使いでジーンズの合わせ目をくつろげ、そのまま一気に膝元まで引き摺り下ろしてしまった。
間一髪。
嵐は、下着のゴムの部分をはっしと掴んで、辛うじて放送事故を免れた。
「……あらァ?」
必殺技が決まらなかったのは伸びすぎた爪のせいだと言わんばかりに、玉江は、右手を広げて検分するように指先を見た。
「さすがに、みっちゃんの時みたいにいかないわねぇ。お姉さんとじゃ、そんなに嫌?」
嵐は、はっと息を飲んだ。
光彦の、あの尋常ならざる怯え様は――。
誰あろう、玉江こそ光彦の童貞を強奪した張本人だったのだ。
「あなたが、光彦の初めての……?」
「まぁ、知ってるの? もしかしてみっちゃんのお友達? なら、話が早いわね」
悪びれもせず言う玉江を見て、嵐は、頭に集中していた血液の塊が、潮が引くように落ちて全身に行き渡るのを感じた。
そうだ、力で負けるわけが無いのだ。嵐は、尚も股間近くを這い回る玉江の手を押さえ込んで、敢然と顔を上げた。
「俺は確かに童貞で、経験してみたいって好奇心もあるけど……こんな風に無理やりだなんて、男だって傷付くんですよッ!?」
言ってる台詞は至極まともだが、下半身パンツ一丁ではあまりにも説得力に欠ける。
しかし玉江は、思わぬ反撃に驚いた様子で、眼を見開いた。二重にかさねた付け睫毛とアイラインに縁取られたその双眸に、戸惑いが過ぎったのを、嵐は見逃さなかった。
「あなただって最初は、好きな人と結ばれたかったでしょう? 光彦だって……」
やり込めてやりたい気持ちで一杯だったのに、なぜだか、それ以上の言葉は出てこなかった。
嵐の言葉に、玉江は一切反論しなかった。眉間に哀感を漂わせて、
「そう……。今時、君みたいな男の子がいるのね」
とだけ呟き、スッと身体を離すと、鏡に向かいスカートの裾とブラウスの襟を正し、玉江は、何事も無かったような顔で、洗面所を後にしたのである。
香水の残り香で、まだ息苦しい。ジーンズを引き上げ、エプロンの紐を結びなおす。一人残された嵐は、高鳴る動悸を抑えるように心臓の辺りを撫で下ろした。
好きな人と結ばれる。いつになったらそんな日が訪れるのか。
自らの言葉を思い返して、嵐は肩を落とし、肺を絞るように大きな溜息を吐いた。
ぽっかり、無意識に浮かんだ、二つの顔。
「わ……ッ! 出てくンなよッ!」
それらを脳裏から打ち消すように、嵐は頭を掻きむしった。
しかし、玉江に肉弾を撃ち付けられても、ピクリとも反応しない我が息子は――。
いくら恐怖心が先走ってそれどころでは無かったとはいえ、無反応――むしろ縮み上がっていた愚息の方が、嵐には大問題に思えた。
トイレから戻り、嵐が洗い場で手を洗っていた丁度その時、陽平が長暖簾を割って姿を現した。焼きあがったホッケを盛り付ける皿を取りに来たのだ。
「陽平ちゃん、金髪君の今日のバイト代払うから、一時間だけ私の相手させていい?」
と、玉江。
陽平は顔も上げずに、木杓子で大なべをひと掻きしてから、久保田の一升瓶をカウンターにドンと置いた。それを無言の了解と取った玉江は、隣の椅子を引いて嵐に座るよう促した。
「俺、酒は……」
「安心なさい、飲ませやしないわ。お酌と話し相手をしてくれればいいの。このお店が混むのはいつも七時過ぎだし、大丈夫よ」
威勢良く説教したは良いものの、傷付けてしまったのではないか、もっと他に言い方があったのではないかと、罪悪感が後から後から胸の内に湧き出してくる。
困り顔で棒立ちする嵐に、椅子の背凭れを軽く揺すって、玉江が急かした。
「……はぁ、俺で良ければ」
と、小声で返事をして、嵐は一升瓶を抱え、玉江の横にちんまりと座った。
話し相手に、と言い出したのに関わらず、玉江は一向に口を開こうとしない。痛みに耐えるような顔付きでテーブルの一点を見つめて、ちびちびとグラスを傾けているだけである。
グラスが乾けば、無言で嵐に差し出す。
注ぎ足すと、ありがとう、と言ってまたちびちび――。
玉江の横顔は、女性らしい柔らかな稜線を描いていた。舞台化粧を落とせば、意外に清楚な美人が顔を出すかもしれない。嵐は、ぼんやりそんなことを考えながら、玉江の表情を読み取ろうと眼を凝らしていた。
陽平がテーブルに運んできたのは、『よっちゃん』名物モツ煮込み、ホッケ、イカ刺し、ツナの乗った大根サラダの四品だった。嵐が受けた注文とは大分違うが、玉江は何も言わずに割り箸を二本取り、一方を嵐に差し出した。バイトに来てさすがにそれは図々しいと、嵐は丁重に辞退した。
そのうち、馴染みの客が一人二人と縄暖簾を潜ってやってきた。それぞれが勝手知ったる様子で、キープしたボトルを入り口脇にある大棚から取って、指定席に腰を降ろす。
口々に注文する肴の中には、メニューに無いものもあるようだ。陽平はメモも取らずに、狭い調理場の中を見事な身のこなしで右へ左へと移動して、出来上がった料理を次々カウンターに並べていった。それを常連が自ら取って、テーブルまで運ぶ。
アルバイトなど、いるだけ邪魔なんじゃなかろうか?
そうは思っても、何もしないでいるこの状況が、嵐には居た堪れなかった。
「あのぅ、そろそろ……」
嵐の、次の言葉を遮るように玉江は、
「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき……か……」
そう一人ごちてから、呆れるほどの邪心の無さで、嵐にニコリと微笑みかけた。
「あーあ、これからお店だって言うのに、飲みすぎちゃったわ。金髪君、相手してくれてありがとね」
ほんの数十分、玉江の傍らにただ座っていることに何ほどの意味があったのか、嵐には推し量りかねたが、あえて訊くことはしなかった。
去り際、戸口の前で玉江は嵐に振り返って、押し殺したような声でこう言った。
「みっちゃんに……ごめんねって。もうお店にこないから安心してって……伝えて」
それから、と言葉を継いで、
「これあげるわ。アレを捨てたくなったらいつでもいらっしゃい。君なら、タダにしてあげる」
半ば強引に押し付けられた小さな紙片には、『ファッションマッサージ 五反田CHERRY』とあった。その名刺に記された場所が性風俗の店であることは、如何に経験不足の嵐でも、容易に想像できた。
玉江の背中を見送りながら、懲りてないな、と嵐は呆れ声で呟いた。
玉江が去って三十分と待たずに、店は満席となった。然しもの陽平も料理だけで手一杯となり、嵐は、注文から、生ビール、チューハイ、サワーなど自分で出来るものは作り、上がった料理を運び、接客の合間には皿洗いと、拙いながらも、懸命に身体を動かした。
閉店時間が近付き、客もまばらになった頃、陽平が「今日はもういいぞ」と、嵐の肩を軽く叩いた。
少しは役に立ったのだろうか。時給七百円で約六時間、嵐は、合計四千二百円分の働きをしたとは到底思えなかった。
そんな不安を読み取ったのか、すっかり帰り支度を整えて光彦の部屋から戻ってきた嵐に、「助かったよ」と、陽平はぶっきら棒に声を掛け、小さな風呂敷包みを渡した。
まだ温かい。間違いなく、夜食の類のものだろう。
慣れない立ち仕事をしたにも関わらず、自宅へと向かう嵐の足取りは軽やかだった。
部屋に戻ると、光彦が憮然と胡坐をかいて嵐を待ち受けていた。早速、合鍵が活躍したというわけだ。
「いると思ったよ」
フライングVをスタンドに立て、ライダースをハンガーに掛けると、嵐は、糸が切れたように座り込み、ガラステーブルの上に頭を乗せて両腕をだらしなく投げ出した。玉江の一件と、初めてのバイトで張り詰めていた神経が、一気に緩んだのだ。
「食われたか?」
と、光彦。質問の意味はすぐに理解できた。
「……れそうになった」
「ありゃ痴女だ、魔界のチミモーリョーだ、妖怪エロかけばばあだ。こえーだろ、恐ろしかっただろ?」
「こわかった……けど、光彦が言うほど、悪い人じゃないと思うよ」
光彦は不思議そうに眼を瞬かせて、腕を組み直した。
「おい。あの女は、俺のドーテーを、あろうことか店の便所で奪ったんだぞ?」
「そのこと、謝ってた。ごめんね、だって」
上擦った声で、「うそだろ?」と光彦が訊き返すまでに、随分間があった。
「お店にも、もう来ないから安心してって……言ってた」
聞くや否や、光彦は血相を変えて立ち上がり、矢継ぎ早に嵐に怒声を浴びせかけた。
「謝って済むことかよッ! てめぇのお陰で俺ぁ女恐怖症になったんだよッ! 謝るなら俺様に謝りやがれッつーか俺のドーテー返せ今すぐ返せオラァッ!」
相手が男でさえあれば、両拳に血管を浮かび上がらせて、即座に殴りに走るのであろう。しかし、今回ばかりは怒りの矛先をどこへ持っていけば良いやら、光彦自身混乱の渦中にあり、結局、眼の前にいる嵐がその煽りを食う破目となったのだ。
光彦の怒声は続く。
「ナンだぁ? もう店来ないから安心してだぁ? 今更いい人間ぶりやがって、ふざけんじゃねぇぞクソ女がぁ――ッ!!……」
嵐は、所詮こういう損な役回りなのだと諦めに近い思いで、頭上から否応無く降り注ぐ激昂した光彦の言葉を、両耳を塞いでただじっとやり過ごしていた。
怒号の雨の後に、重い沈黙が訪れた。ようやく治まったかと、恐々薄目を開けると、
「俺、今からフテ寝するから」
「……えッ?」
光彦は、余憤を吐き捨てるように、フンと鼻を鳴らしてから、嵐の折りたたみベッドを我が物顔で広げはじめた。
「あの、ちょっと……光……」
「おやすみ」
毛布に潜り込むと、くるりと嵐に背を向けて、わざとらしい寝息を立てはじめる光彦。
「俺のベッド……」
当り散らされた挙句、ベッドまで奪われてしまった。踏んだり蹴ったりとはこのことである。
せめて着替えてからにしてくれよと、嵐は内心穏やかではなかったが、光彦のあの部屋を眼の当たりにした後では、小うるさく注意する気も起きない。
「……じゃあ俺、母屋で寝るから。朝になったら起こしに来るよ」
立ち上がりかけて、嵐は不意にカクリと膝を折った。光彦が、器用にも背を向けたまま腕だけ毛布から伸ばして、嵐のTシャツの端をしっかり掴んでいたのだ。
「分かったよ。風呂入ってから、布団持ってくる。親父さんが、夜食持たせてくれたんだけど……多分、光彦の分も入ってるぞ。食べないのか?」
毛布からほんの少し覗いた頭が、頷いている。嵐は、光彦の手をやんわり解いて、部屋を出た。
母屋へ向かう途中、嵐は、ふと足を止めた。
純生を呼び出そうか。フランスに旅立つのは数日先、電話をすれば、いそいそとお泊りセットを持ってやってくるだろう。
嵐は、携帯を部屋に取りに戻ろうかとしばらく悩んで、結局、止めた。光彦のフテ寝の理由を、上手く純生に説明できる自信が無い。
光彦の脳内は数式で成り立っている、答えの出ない問題など無いのだと、嵐はそう思い込んでいた。
だが、違った。
今、光彦はやり場の無い怒りと、八つ当たりの罪悪感で悶々としているはずだ。簡易ベッドに収まりきらない巨体を小さく丸めている光彦は拗ねた子供みたいで、可愛いとさえ思えた。
光彦と二人きりで過ごす夜に、身の危険を感じないわけでは無かったが、ただなんとなく、今日は一緒にいてやりたいというのが、嵐の正直な気持ちだった。
天上には、夏の大三角形。その西側にはヘラクレス座、南側にはへびつかい座がある――。しかし、都下の明るい夜空では、一等星を見つけるのがやっとだ。
不透明な大気の向こう側に美しく瞬いているであろう星々を想像しながら、嵐は、大昔に授業でならったギリシャ神話を思い出していた。
メドゥーサも、蛇の頭髪を持つ怪物に変えられる前は、美しい処女だったのだ。