若人たるもの

 カーテンの隙間から差し込んだ数条の光りが、丁度、嵐の顔に差し掛かった時。眩しさと右腕の違和感、とどめはラウドな何かに促されて、嵐は覚醒した。
 網膜にぼんやり映った天井の縞模様が、いつもと微妙に違うラインを描いている。
 瞳だけを動かして置時計を見ると、まだ七時過ぎ。九時にセットしておいた、コンポの目覚し機能が働く前に目覚めてしまった。
 マイケルの奏でる物悲しいギターの旋律で気持ちよく目覚めるのが、嵐の毎朝だったのに――。

 ラウドロックならぬ(限りなくイビキに近い)ラウドな寝息が、朝っぱらから否応なしに嵐の鼓膜を不愉快にさせる。原因は分かっている。光彦だ。
 床に薄っぺらな布団一枚で寝たせいか、嵐の右腕の感覚は完全に麻痺していた。寝相は良い方だと自負を持つ嵐は、かつて起き抜けに四肢が痺れていた経験など無い。
 これだけの悪条件が重なっても、夢を見ることもなくたっぷり七時間熟睡できたのは、やはり昨日のバイト疲れだろうか? などとぼんやり考えながら、時間にして三分、嵐は、頭のピントを合わせるように天井に張り巡らされた遮音ボードの縞模様を眺めていた。
「クソ……ベッドまで譲ってやって、これで寝起きが悪かったらブン殴ってやる……」
 そう毒吐いてから、あちこち軋む身体を引き起こそうとして、

「――な……なんでッ!? どしてッ!?」

 嵐は、驚愕の一声を上げた。
 嵐のすぐ傍らで――寝顔はまさに天下泰平、持参したのであろう抱き枕をしっかと抱いて、眠り姫さながらにスヤスヤと穏やかな寝息を立てているのは――純生であった。
 嵐は天を仰ぎ目薬を差した後のように眼を瞬かせて、さらに左手の甲で両眼の睫毛をなぞってから、もう一度純生を見た。夢でも幻でもない、つまり嵐の二の腕で血流を塞き止めていたのは、純生の頭だったのだ。

 これは、腕枕というやつじゃなかろうか?
 ……否、そんなことはどうでも良いのだ。何故、純生が?

「純生、おーい純生……なんでお前がここにいるんだよ」
 光彦を起こすのを警戒して、小声で純生の耳元にそう囁きかけると、
「ん――……」
 返ってきたのは、赤子が愚図るような甘え声。一気に腕を引き抜けばあるいは起きるのだろうが、天使の寝顔を前にしてはそれも罪悪に思えて、嵐は、肩甲骨を布団から五センチほど浮かせた無理な体勢のまま固まっていた。
 至近距離で拝む純生の寝顔は、例え男と分かっていても、観賞用としては心憎いほどの華々しさがあり、嵐は、少なからず興奮してしばらく見惚れていた。その間、光彦の寝息すら妙音なBGMに錯覚できるほどであった。

 純生の睫毛は微かに揺れ、やがて夢の続きを見るようなうっとりとした眼差しを嵐へと向けた。
「……らーん……おはよぉ……」
「お、おはよう」
 反射的におはよう。
 言ってしまってから、嵐は狼狽して口元を左手のひらで覆った。不意に湧き上がった面映い気持ちに、頬が赤らむのを感じたからだ。
「眠いよぉ……いま、何時?」
「えぇーと、七時十五分」
「僕、寝たの四時過ぎなのにぃ……」
「そそうか。起こして悪かったな」
 と、そこまで話して、嵐は首を傾げた。

 これは、ピロウ・トークというやつじゃなかろうか? 
 否、別に愛を囁き合っているわけではなく、会話の内容は極めて淡白だ。
 ……だからそんなことはどうでも良いのだ。何故、純生が?

 嵐は、再び眠りに就こうと瞼を閉じた純生の肩を軽く揺すって、子供を諭すような口調で言った。
「純生。なんで、俺の横に寝てるんだ?」
「……光彦の横で……寝ろって言うの……?」
 むくりと身体を起こして、純生は夢心地だった双眸を閃かせて言った。嵐は、ようやく開放された右腕を撫でさすりながら『むすんでひらいて』して、なんとか神経が繋がっていることを確認すると、欠伸を噛み殺してうっすら涙を浮かべている純生に、さらに言い含めるように続けた。

「あの、俺の訊いてるのはそういうことじゃなくてね――」
「夕べ、どうしても眠れなくって。やっぱり一日一回は顔見ないと落ち着かないなぁって、それで……」
 明け方に忍び込んだと言うのか。
 さすがの嵐もムッとして、
「……純生、住居不法侵入罪だぞ」
 と純生の鼻頭に人差し指を向けて迫ると、
「合鍵もらってるんだよ? 不法なワケないじゃない?」
 純生は、けろりとそう言い放って立ち上がり、カーテンを勢い良く左右に払った。扇形に広がった朝の透明な日差しに眼を細めて、生成り色のパジャマに身を包んだ純生が、小さく伸びをする。嵐は、逆光に浮かび上がった純生のシルエットを呆然と見た。

 なんてことだ。合鍵がここまで乱用されようとは――。
 布団のすぐ横にきちんと畳んで置かれた純生の着替えを見つけて、嵐は、己の認識不足を思い知らされた気がした。
 城主が、ノンレム睡眠の深海を気持ち良く遊泳中の明け方に、純生はマイ枕まで持参して、部屋に忍び込んだのだ。そのうち、歯ブラシだのおそろいのマグカップだのが持ち込まれ、ヘヴィメタ城は無残にも二人の侵略者によって俗化され荒廃していくに違いない。その過程がまざまざしく嵐の脳内に映し出された。
 後悔先に立たず――今ほど、この諺が身に沁みたことは無い。嵐は、部屋の一角を陣取っているパソコンや灰皿に山となった吸殻を見てげんなりと肩を落とし、最後にフライングVへと視線を流した。
(俺のフライングV……もう随分磨いてあげてない……。ごめんよ、こんなことになっちゃって……)
 スタンドでひっそりと佇むその奥床しさに、胸に熱く込み上げるものを感じて、嵐は言葉も無くフライングVをじっと見つめていた。

 朝っぱらから無機物相手に湿った熱視線を送る嵐の横顔を呆れ顔で見て、ひとつ小さな溜息を吐いてから、純生は、嵐に膝頭を突きつけるようにして座った。
「ところで……夕べ、僕を除け者にして、二人で一体ナニしてたの?」
「――へ?」
 腑抜けた声とともに振り返った嵐は、純生の顰め面に向けて、ぶんぶんと首を振った。
「ナニって何だよッ!? 何もしてないよッ!」
「抜け駆けされたみたいで、僕、ちょっと怒ってるんだよ? その慌てぶり、怪しいなぁ……」
「ち違ッ……! これは成り行き上……」
「成り行きって? 成り行きで光彦とどうにかなっちゃったの? 教えてよ」
「確かにどうにかされそうになったけど、相手は光彦じゃなくって……えぇーと、ななんて説明したらいいのかな、だって別々に寝てるだろ? どうにかなってたら、あのベッドで一緒に寝るよな、な?」
「――あーうるせぇ……」

 嵐は、続く言葉を胃の中に押し込み、純生は、素早く嵐の背後に回りこんだ。
 寝起き大魔神、光彦のお目覚めである。
 頭は寝癖で鳥の巣状態、いつの間に脱いだのやらトランクス一枚の姿で、光彦は、嵐のベッドの上に胡坐を掻いていた。未だ半醒半睡といった様子で、声も寝言の延長のようにくぐもっていたが、表情こそ無いものの半開きの瞼から覗く瞳はどんより濁って、全身からピリピリと凶悪な臭気を撒き散らしている。
 嵐と純生は、次なる展開に怯えながら光彦の顔を注視していた。しかし、光彦は座像のように動かない。
 眼を開けたまま、また寝てしまったのか――。

 二度寝するには勿体無いほどの青空が、窓一面に広がっている。
 いくらか落ち着きを取り戻した嵐は、気を取り直して、
「――光彦君? お……おはよう。朝だぞ」
 と、恐る恐る小声で語りかけてみた。すると、光彦は不愉快そうに眉を寄せてから、身体の一部分をピクンピクンと二度動かして、嵐に朝の挨拶を返した。

 純生は眼を点にして固まり、嵐の顔からは火柱が噴き出した――と、その一瞬後、嵐は手元にあった枕を咄嗟に引っ掴んで、投げ放った――光彦の、股間めがけて。
 顔色ばかり窺っていた二人は、その時初めて気が付いたのだ。健康な若人の証明が、光彦のトランクスを元気一杯持ち上げて、おはようの挨拶をしていることを。

 しかしうろたえるあまり嵐の手元が狂ったのか、枕が命中したのは光彦の顔面であった。
 枕は、光彦の顔面でしばらく留まり、やがて胡坐を組んだ足の上にパサリと落下した。現れたのは、謂れ無き枕攻撃を喰らって眉間の皺を深くした、光彦の怒りに歪んだ顔である。

「あッ――ご、ごめん……」
 光彦に一片の罪も無いのは明々白々、我に返った嵐は、素直に謝った。
「嵐よ……今の攻撃はなンだ?」
 理由によっては喧嘩を買うぞ、と言いたげなドスの効いた声で光彦が訊く。
「ちょっと……それ、隠して欲しくて。――ごめん、なんか俺……悪い」
 顔を真っ赤にして不自然に眼を泳がせる嵐の指差す先に、光彦はストンと視線を落とした。
「……別に剥き出しってワケじゃなし、朝勃ちぐれぇでガタガタ騒ぐんじゃねぇよ。お前らだって勃ってんだろうが」

 ズバリ指摘されて、嵐と純生はぱっと顔を見合わせた。嵐は厚手のスウェットを履いていたし、純生のパジャマはゆったりしているせいかあまり目立たないが、朝の自然現象は二人にもしっかり生じていたのだ。慌てて嵐は、Tシャツの裾を引き伸ばして股間を覆い隠し、純生は、毛布を腰に巻きつけ身を竦めた。
 別にサイズがどうこう、という問題ではない。単に、トランクス一枚の光彦の……が、特別生々しかっただけである。ちょっと篠原に同情するくらいの想像は、嵐と純生の脳裏を過ぎったかもしれないが――。
 その後、塩田家母屋のトイレに小用を足すため短い順番待ちの列が出来たのは、若人三人集まれば、当然といえば当然のことであった。

 朋子の用意した朝食を平らげ、午前中、三人は嵐の部屋や庭を掃除して過ごし、午後は旅行の計画に興じた。
 日焼けを警戒する嵐と、「裸の女が転がってる海なんかに行けるか」という光彦の一言で、旅行は北軽井沢の別荘と決まった。インターネットで近辺のレジャー施設や観光スポットを調べたり、移動手段をあれこれ検討したり――果ては四泊五日分の献立に至るまで計画は綿密に練り上げられ、結局、嵐のバイトに行く時間になるまで、三人の話が尽きることは無かった。


 純生は、フランスに旅立つまで数日間、開店前の『よっちゃん』に缶ジュース片手に通い詰め、二人の勤労に励む姿を店の隅で三十分ほど眺めるだけ眺めて、満足顔で帰っていった。
 たかだか十日ほどの渡仏だというのに、搭乗時間ギリギリまで別れを惜しんで、空港まで見送りに来た嵐の腕を放そうとしなかった純生を、大袈裟だ、となだめていた二人も、実際、純生が遠く日本を離れてからは、日々に漠然とした物足りなさを感じていた。


 嵐のアルバイトは、概ね順調であった。三日を過ぎたあたりから接客にも慣れてきて、酔態を晒す客への扱いもそれなりになってきた。

 嵐にとって『居酒屋 よっちゃん』は、大人の世界――その一言に尽きた。
 殆どの客は、アルコールの恩恵に浴して和気藹々と一時を過ごし、上機嫌で帰っていくが、例外も少なくない。怒り上戸、泣き上戸、機嫌上戸――酔い方は十人十色だ。もちろん、一升瓶半分開けても、顔色一つ変えない客もいる。

 旧知の親友同士が互いに肩を組み合って、昔話に花を咲かせていると思えば、その翌日に片割れだけが別の友人と来店して、昨日の友への罵詈雑言を並べ立てていたりする。
 また、毎夜八時過ぎに一人で来店する二十代後半らしき女性客は、カウンターに座るなり、会社でまた失敗をしてしまった、酷い暴言で友人を傷つけてしまった、行きずりの男と関係を持ってしまったと、その日にあった出来事を独り言のように延々と語り続けた。陽平は相槌すら打たないが、機を見計らってメニューに無い特製の糠漬けを小鉢に装い、そっと彼女の前に置く。それが懺悔滅罪とでも言うように彼女は幸せそうに微笑んで、最後の一杯を飲み干すと、静かに席を立って帰っていった。

 会社の人間関係や夫婦間の愚痴、不倫カップルの睦言エトセトラ。テレビドラマでくらいしか耳にすることの無かった会話が店のあちこちで交わされ、ドラマのそれとは比べ物にならないほどの現実味を持って、嵐の耳に次々飛び込んできた。
 大人になれば、誰もが嫌でも突きつけられるであろう現実。光彦は、物心付く前からこの世界を見てきたのだ。飄々とした風情も、達観したような物言いも、あるいは性に対する拘りの無さも。光彦の光彦たる所以は全て、ここ『居酒屋 よっちゃん』に凝縮されているように、嵐には思えた。
 それでも、未来に希望を失っていないように見えるのは、陽平の底知れぬ懐の深さと、厨房の隅にひっそりと掲げられた額の中で微笑む母親のお陰に違いない。

 七月末日、バイトの最終日――。
 嵐は、多少の名残惜しさを感じながらエプロンを脱ぎ、綺麗に畳んで陽平に手渡し、代わりに封筒に入ったバイト料を受け取った。「また気が向いたらこい」と言う陽平に、嵐はぎこちなく微笑んでから深々と頭を下げた。

 帰り際、戸口の外まで見送りに来た光彦の肩をポンと叩いて、
「今度、三人で酒でも飲んでみようか?」と、嵐。
「あぁ? ……ナニらしくねぇこと言ってんだ、お前」
「俺ら、酒飲んだらどうなっちゃうんだろうな」
 クソ真面目この上ない嵐が、未成年の分際で酒を飲もうと言い出すとは。
 訝しむ視線を尻目に、軽く手を振って歩き出した嵐の背に向けて、
「言っておくが、俺はザルだぞ」
 と、光彦は叫んだ。
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