四畳半より愛をこめて

「……な……おな……」
 まで呟いて、嵐は、頭を抱え込んだ。
 色の三原色で言えば、レッド・グリーン・ブルーの数値がそれぞれ百パーセント――な、白。真の白と書いて真っ白。いっそ清々しいほどの真っ白。嵐の頭の中は今、この状態である。光彦に抱きしめられたときにも同じような『真っ白』を味わったが、今度は真っ白な空間に加えて、物凄い勢いでカタカナ四文字が飛び交っている。
  嵐は、無論その意味を知っていた。知ってはいたが、生まれてこの方一度たりとも、その単語――『オ』から始まるカタカナ四文字で最後の一文字が音引きの、遥かゲルマンの地からやってきた外来語――を声に出して言ったことがない。元気盛りなクラスの男子生徒達が女子の眼の届かぬ所で、左手がいいだの、いややっぱり人肌に温めたコンニャクが、だのと、どれだけこの言葉について論議しあっていたとしても、嵐の与り知るところではない。
 硬派ヘヴィ・メタルは常に誇り高く、孤高を持し、克己的でなければならない。ギターヒーローは、決して世俗に塗れたりはしないのだ。そう、教えられてきた。

 白一色の亜空間にようやく見えてきたのは明滅するショッキングピンク、発光ダイオードの蛍光色であった。膝元には、手から抜け落ちた携帯電話。発光部は、まだ通話状態であることを示していた。
 呼び覚まされた自我意識が、嵐に次の行動を急き立てる。

「にー…………だってッ!?」

 ――止めなければ。 何かとても大切なものが壊れようとしている。
 考えている余裕はない。嵐は、あたふたと拾い上げた携帯電話を数回お手玉し、どうにか耳元へ運んだ。が、上下逆さまなことに気づいてまたお手玉、再び落としてしまった携帯電話を、今度ははっしと掴んで。
「待て待て待て――ッ!! 今からお前ん家行くからッ! 話し合おうッ! それまで待て――ッ!」
 無言というよりは、不気味な無音が返ってきた。己が今、何デシベルの声を張り上げたのか、嵐はもちろん分かっていない。無音の理由は、鼓膜の危機を咄嗟に感じ取った光彦が、携帯を顔から遠く離したからであった。
「み、光彦……?」
 繋がってるよな、と液晶画面を確認し、もう一度スピーカー部を耳に当てれば、
『今、俺ん家なんかにきてみろ。押し倒すぞ』
 と、抑揚のない低い声が答えた。単調な話し振りに、光彦の本気が滲み出ている。嵐は、直接肉体に迫ってくるような生々しさにうろたえた。しかし、ここで引くわけにはいかない。ごくりと唾を飲みこむ。
「おお前、だってあの時言ったじゃないか! 俺や純生に……その、いちいちぼっ……反応してたら身が持たないって!」
『あんときゃ本当にそう思ってたんだよ。仕方ねぇだろ、事情が変わっちまったんだ』
「勝手に変えるな――ッ!!」
 嵐は、ガラステーブルを弾き飛ばして立ち上がった。それぞれ違う方向に散じた三つのコーヒーカップは、絨毯の弾力で跳ね、黒い飛沫で嵐の部屋中を汚染した。磨き上げたフライングVのボディにもしっかり被害は及んでいたが、今の嵐に愛器を思い遣るゆとりはない。電話口からはまたも無音が返ってくるが、嵐はお構いなしに続けた。
「俺達の関係を壊す気かよ!? 酸欠、どうするんだ!? 俺達は一緒にいなきゃ駄目なんだって、確かめ合ったばかりじゃないかッ!」
 そんなことは百も承知と言いたげに、光彦は、『そうだな』と冷静に答えた。
『あのなぁ。毎晩毎晩、シゴこうとすっと頭ン中にお前らが裸で出てきて、気分悪ぃったらねぇんだよ。そのままやっちまおうかと思うけど、イけねぇんだ。お陰で寝れねぇ。つまり俺は、一ヵ月分のザーメンがタマってんだよ。有り得ねぇだろ? 有り得ねぇよな? 嵐、一ヶ月オナニー我慢したことあるか?』
「う……」
 絶句。如何に晩生な嵐とて、一ヶ月の禁欲はさすがに経験がない。光彦の悲惨な顔にも納得がいった――が、そんなことより。嵐に奇妙な安堵感をもたらしたのは、「ら」の一文字である。確かに光彦は、「お前ら」と言った。つまり、己だけが光彦の妄想の対象ではないと悟って、思わず知らず嵐は安堵してしまった。だからといって状況が好転するわけでもない。純生まで巻き込むとなれば、いよいよ事態は深刻である。
 ――困った。どうやって光彦を説伏すればよいのか。手掛かりが何一つ見つからない。
 光彦は、まるで台詞を準備してきたかのように、滞りなく語り続ける。

『おととい、岩井のおっさんで勃起したとき、あぁもうこりゃ駄目だって観念した。それで、篠原を呼び出した』
「お、お前は誰でもいいのかよッ!?」
『お前ら以外なら、誰でも良かったんだよ。とにかく俺は今、人殺したって抜きてぇぐれぇなんだから』
「人殺すって、お前……」
 ふと嵐は、一度は聞き流した光彦の言葉を反芻した。
 岩井のおっさん――。『よっちゃん』の常連客で、自慢の持ち物を披露したがる小太りで頭がザビエル風の壮年の男。酔っ払いの最終形として嵐の記憶に刻まれているその男に、光彦は欲情したという。「本気かよ」と、呆れ声でひとつ呟いて、そして――篠原――?
「篠原……輔……? だって、もう会わないって……誰でも良かったって、お前それ……」
『三下り半食らった挙句、殴られた』
「当たり前だッ! あほうッ!!」
『……そのぐれぇ余裕がねぇんだよ、俺は』
 淡々としていた光彦の口調が崩れた。沈んだ声音に、嵐は、強い力で胸を押されたような窒息感を覚える。
 嵐の脳裏に、発情期のピークを迎えた若盛りの雄虎が描き出された。その周りは、魅惑的なフェロモンを撒き散らす雌の群れ。だが、檻に囚われている雄虎はどうすることもできず、ただ悲愴な咆哮を轟かせている。
 酷く同情心を刺激される光景ではあったが、嵐は、頭を一振りしてその幻想を追いやった。
「俺をネタに……って、そんなこと急に言われても、俺どうしたらいいか……わざわざ宣言するようなことじゃないだろう? 俺の気持ちも、少しは考えてくれよ……」
 言ったところで、気遣いなど微塵も期待はしていないが、押して駄目ならなんとやら。泣き落としであれば多少なりとも効果が得られるかもしれないと、嵐は語尾に充分な湿り気を含ませてみた。
『宣言なんかじゃねぇ、許可を貰おうと思って電話したんだ。――許す、と一言いえ。そうすりゃ多分、俺は気分良くお前でシゴけンだよ』
「シゴくな馬鹿野郎ッ! そんなの許せるかッ!!」
 光彦の突拍子も無い切り返しに、結局、怒鳴る羽目に陥る。


 それから、沈黙が訪れた。肩で息を切るまでに激していた嵐に冷静さを取り戻させるほどの、たっぷりとした長い沈黙。
 嵐は、自分ばかりが興奮して声を荒げているこの状況が、少々馬鹿らしく思えてきていた。何を言ったところで、光彦は行動に移すだろう。そういう奴なのだ――という諦観の境地。
 クリーム色の絨毯のあちこちに広がる黒々とした染みをげんなりと見て、嵐は膝を落とした。フライングVにも、僅かだが点々と黒染みがついている。平静であれば即座にVに飛びつくのだろうが、今はとにかく気力が出ない。ぐるりと見回せば、黒点は天井にまで及んでいた。一体どこから手をつけたらいいものか――見方を変えてみれば、ヘヴィメタ城らしくてこのままでも良いとすら思えてきてしまう。
 肩と顎の間に携帯を挟んで、染みを避けながら四つん這いでカップだけ拾いにいく。割れていないことがせめてもの救いだった。光彦が黙り込んでから、楽に五分は経過している。別に犯されるわけじゃなし、嵐は、もうどうにでもなれ、というやけっぱちな気分で、聞くまでも無い光彦の最終決断を待った。

『どうしても許せねぇ……って言うなら』
 散々待たされた言葉に、嵐は溜め息で答えた。
「言ったら? どうだってんだよ? 諦めてくれるのか?」
『俺を、切るか? 俺達の、この関係から』
 無茶言うな、と零しそうになった唇を慌てて噛み締めた。
 切れるものなら、とっくに切っている。光彦のいない毎日など想像もつかないし、光彦の排除を試みたところで、結果は知れている。人は、酸素がないと生きていけない、そういう厄介な生き物なのだ。だが嵐は、「切る」と言ってみたい衝動に駆られていた。己をこの苦境に追い込んだ腹いせにしてはささやか過ぎるその一言を、嵐が口にしようとした時。
『そんなことしてみろ。お前らを、強姦してやる。やるぞ、今の俺なら、本当に』
 言うに事欠いて、脅迫か。嵐は、より深々とした溜め息で答えた。呆れてものも言えない。
『どっちにしろ、俺を性犯罪者にしたくなきゃ、お前は認めるしかないんだよ。許すな? 許すって言え』
 逃げられないと解っていても、直ぐにはイエスと出てこなかった。息を大きく吸って、吐く。もう一度。
 性に頓着無い光彦のことだ、飽きたらまた別の獲物を狙うだけ。それだけのこと――。
 嵐は、腹を括った。

「好きにしろ。だけど、妄想だけにしとけ。でないと、血を見ることになるぞ。 ……と、もうひとつ。俺だけにしろよ。純生を巻き込むな」
『無理だ。なにしろワンセットだからな。純生は、明日の晩だ』
 嵐のこめかみに青筋が走った。光彦の話し振りが晩飯のオカズを戯れに語るように聞こえたからだ。否、オカズには変わりは無いのだが、意味が違う。
「純生がこんなこと知ったら、あいつ、二度と自分の部屋から出てこないぞ。ニートまっしぐらだ。それぐらい、想像つくだろう?」
『もしそうなったら……』
「なったら? どうやって責任とるつもりだよ」
『部屋から引きずり出すまでだ』
 光彦は、敢然と言い切って、ついでとばかりに通話も切った。
 まったく光彦らしい。光彦らしすぎて、笑えてくるほどだ。泣けてもくる。
「……Vにシミが残ったら、半殺しにしてやる」
 嵐は一人ごちて、コーヒーの池と化しているトレイの上にカップを乗せ、雑巾と洗剤を取りに母屋へと向かった。


 まずは床の上に古新聞を敷き詰めた。アナログ盤のコレクション棚も気になって仕方がなかったが、嵐は、なによりフライングVを真っ先に手に取った。折りたたみベッドを引き出し、その上に工具セットを広げ、腰を降ろしてクロスでボディを丹念に拭いた。ネックの反りを調べようとVをベッドに寝かせ、端と端のフレットを指で押さえたところで、やっぱり弦を全て張り替えることに決めた。錆びも心配だったが、このままこの弦を使い続ける気には到底なれなかったからだ。専用の器具でペグを回し、弦を緩める。先週、換えたばかりの三弦をペンチで切るときには、光彦への怒りがむらむらと湧き上がってきて、手が震えた。全ての弦をブリッジから引き抜き、嵐は、新しい弦をパッケージから取り出すことなく、フライングVをギターケースに収めた。弦は、いつでも張れる。

  エフェクター類と、滅多に弾くことの無いフェンダーの黒いベース、フェルナンデスの赤いぞうさんギターは、常にカバーをかけてあるから問題ない。コール・クラークのアコースティック・ギターは高価なものだが、兄からの預かり物であるから特別な愛着はない。後回しにすることにした。被害甚大なのは、スライド練習用としてオープンGにチューニングを施してある嵐のセカンド・ギター、スリートーン・サンバーストのストラトキャスターだった。黒ずんだボディについたコーヒーの汚点は確認し辛く、嵐は糸のように眼を細めて念入りにチェックしながら、汚れを丁寧にふき取った。

 アナログ盤の棚は、比較的被害が少なかった。嵐のコレクションの中には、オークションに出品すれば数万円の値がつくものが何枚もある。どれほど高価なレア盤だったとしても、嵐には関係ない。例え古レコード屋の、次はゴミ箱行きという百円コーナーに埋もれていた一枚であったとしても、嵐にとって名盤であれば、それは数万円のアナログ盤と同じ価値を持つ。一枚一枚、ビニールカバーをかけてあるので、中身に影響は無いはず。嵐は、アナログ盤の背だけを雑巾で軽く撫で、次は壁に取り掛かった。

  アルミフレームのパネルに入れてある巨大ポスターは無事、ヘヴィメタ分布図は、飛び散った黒い液体がまるで乾いた血糊に見え、よりおどろおどろしく変貌を遂げていたので、兄との思い出深いそれを已むなく剥がすことにする。どの道、分布図などなくとも全て記憶してある。剥がしてみたら、そこだけ白さが際立っているように見えて、嵐は数歩壁から離れた。やはり、模造紙半分のスペースが、淡いベージュの一面から白く長方形に切り取られていた。光彦の煙草のせいだ。苛立ちが、手だけではなく、嵐の全身を震わせた。

 嵐は、疾うに気が付いていた。身体も心も脱力感でいっぱいだというのに、掃除に集中しようとしているのは何故か。
 考えたくないからだ。
 今この時、光彦の妄想の中で己がどのような醜態を晒しているかなど。

 続いて、最も厄介な天井。背伸びをすればなんとか手が届くが、光彦の立っ端があればさぞや掃除が楽だろうと思う。くそ、くそ、と心の中でぼやきながら、爪先立ちの苦しい体勢で忙しく手を動かす。嵐の苛立ちが頂点に達したとき、ついに心のぼやきが咽をすり抜けた。
「くそッ! 明日、光彦に拭かせてやる……ッ!」
  声に出した途端、嵐の表情が凍りついた。だらりと両腕を垂らし、立ち竦む。
「明日――? ……明日、俺は……」

 ――どんな顔をして、光彦に会えばいいのだろう?
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