Ran's Angel

 雑巾を絞りに母屋へ行くたび、母、朋子にうるさく夕食を急かされたが、一分でも部屋を空ければ、黒い液体がますます壁や床に浸潤していくようで、嵐は、とてもじゃないが食事をする気分にはなれなかった。嵐の様子を心配した朋子が、夕食の炊き込みご飯を丸く握って二つ持ってきてくれたが、それらは、まだラップに包まったままガラステーブルの上に転がっている。
 洗濯機に放り込んでおいたカーテンは、僅か三時間後にふんわりと乾燥までしていて、水仕事に縁の無い嵐を驚かせた。絶対に落ちないだろうと諦めていた絨毯は、朋子が洗面台の棚の奥から探し出してきてくれたカーペット・シャンプーとやらの力を借りて、完璧と言えるまでに綺麗にすることができた。
 洗いたてのカーテンの柔軟剤と外国製の洗剤のきつい臭いが混ざり合って、部屋はなんとも言えない異臭にむせかえるようだった。窓を、一杯に開け放つ。

 嵐は、この汚れを一点たりとも部屋に残してはいけないように感じていた。窓から顔だけ出して新鮮な空気を肺に補給、そして、再び床を蟻のように這い回り、黒点を探した。だが、もうどこにも見当たらない。嵐は、焦った。顎に拳を当て、視線を巡らせながら未練がましく部屋をうろつく。
「あ……」
 見つかった。汚れを落としていない重大な場所が。
 気が付けば、嵐の着ていた上下揃いのスウェットのあちこちが、黒い水玉模様になっていた。もはやコーヒーの染みだけではないようで、白かったはずのスウェットがすっかりくすんでしまっている。数時間に及ぶ清掃作業で、ホコリもたっぷり被っているだろう。嵐は、クローゼットハンガーのバスケットから新しい上下を取り出して、母屋のバスルームへと向かった。

 母屋は、疾うに寝静まっている。兄夫婦は二階、両親の寝室も奥まってはいるものの、嵐は足音を忍ばせて廊下を抜けた。風呂の湯はすっかり冷めてしまっているのだろうが、ゆっくり浸かる気は毛頭ない。とにかく、身体を動かしていたかった。湯量を最大にしたぬるいシャワーを浴びた後、これでもかとシャンプーを泡立てて頭を洗い、普段の倍の量のボディソープをウォッシュタオルに振りかけて、嵐は、入念に全身を掃除した。バスタオルで水気を拭いざんばらになった金髪頭を、乾かさない代わりに輪ゴムで一まとめにする。草臥れたトレーナーに袖を通し、中等部時代のジャージパンツを履けば、すっかり生活感に塗れたヘヴィ・メタルの成れの果て――の、出来上がりであった。

 自室に戻るのは苦痛でしかなかったが、ここに嵐の落ち着ける場所はない。母屋の玄関から嵐の部屋まで僅か七歩、のところを嵐は、重い足取りで十二歩かけて歩いた。ドアを開け、サンダルを片方脱いで一段上がった床へと足をかける。顔を上げた嵐の眼の前にあるのは、どこもかしこも磨き上げられ一点の曇りも無い部屋。ギターも、古雑誌の山も、何一つ配置を変えていないというのに、奇妙な違和感が部屋中に垂れ込めていた。
 いよいよ、掃除するところがなくなってしまった――。もう一歩踏み出して部屋に入れば、あとは寝るだけ。授業中に睡魔と戦いたくなくば、午前三時を過ぎた今、そうするのが最善の道ではあるが、ベッドに潜りこんだところで眠れる保証はどこにもない。

 どうしたものかと途方に暮れていたら、とぼとぼとなにやら物悲しい足音がどこからか聞こえてきた。その頼りなげ足音は、しかし明らかな意志をもってこちらに近づいくるように思えて、嵐は、庭の生垣の向こうへと視線を送った。暗がりの中から現れた少年の姿を見て取るなり、嵐の表情が、泣き笑いのように情けなく歪む。

 そうだ。どうして思いつかなかったのだろう。
 こんなに、会いたかったのに――。

「眠れないんだ……」
 そう呟いた純生は、塩田邸の門扉の前で、睫毛を伏せて悄々と佇んでいる。
「純生……ッ!」
 嵐は、サンダルが片方なのもお構いなしに純生へと駆け寄った。制服をきっちりと着込んだ純生が、左腕に抱え込んでいるのは大きな枕。右肩にかけているのは、ナイロン製のスクールバック。いつもより膨らんでいるそれに、教科書とノートパソコン以外の何が詰め込まれているのかは、直ぐに見当がついた。
 軋んだ音を立てて、アルミ製の門扉は開いた。躊躇いがちに入ってきた純生の両肩を掴んで、嵐は、強引に自分へと引き寄せた。勢いによろめいた純生の身体を、無我夢中で枕ごと抱きすくめる。
「……どうしたんだよ。心配したぞ……」
 ごめん、とだけくぐもった声で小さく返事をして、純生は嵐の胸深くに顔を埋めた。気が緩んだのか細い肩は震えだし、微かな嗚咽が漏れ始める。泣き腫らした眼、鼻の周りを真っ赤に染めた顔――理由こそ解らないが、酷く傷ついているのだろう心を癒しに、こんな夜中に訪ねてきてくれたことが、嵐は無性に嬉しかった。そして、今の嵐にとっても、純生こそが白い翼を持つ救いの存在であったのだ。


 母屋からミルクを温めて持ってきてやると、すっかりパジャマ姿の純生が、嵐のベッドの隅で枕を膝に抱えぽつねんとしていた。窓を開け放していたお陰で臭気は和らいでいるものの、洗剤の残滓でまだ絨毯は僅かに湿っている。そこしか居場所が無かったのだろう。
「部屋……どうしたの?」
「ああ、お前らがくると思って淹れといたコーヒー、うっかりぶちまけちゃったんだ」
「もしかして、こんな時間まで掃除してたの?」
 頷くと、純生は「嵐らしいね」と儚げに笑った。受け取ったマグカップを大事そうに口許に運び、ふーふーと息を吹きかけている純生のあどけない仕草が、たまらなく愛おしい。弟がいたらこんな感じなのだろうか、とぼんやり考えながら、嵐は、ミルクを啜る純生の横顔を眺めていた。
「腹も減ってないか? おにぎり、あるぞ」
 純生は、ふるふると首を振って、飲み終えたカップを嵐へと戻した。
「もう、寝よ」
「……そうだな」
 受け取ったカップをテーブルに置き、電気を消す。嵐は、純生の傍らに折りたたんであった毛布を広げた。横たわり、毛布と右腕を開いて「おいで」と言うと、純生は、持ってきた枕を床に放り出して嵐の隣に潜り込んだ。額を合わせて、互いの瞳を覗き込む。
「眠れそうか?」
「どうかな。でも一人でいるよか、ずうっといいよ」
 ウェーブがかった髪の毛を梳きながら優しく後頭部を撫でると、甘えきった声で名前を呼ばれ、嵐の目許が綻んだ。今は、思いっきり純生を甘やかしてやりたい。そうすることで、己の心痛も癒されるのだろうと、嵐は漠然と感じていた。

「こんなの、光彦が知ったらきっとやきもちを焼くよ。ログハウスでも、僕が嵐の隣で寝てたら、とても悔しそうにしてたんだ」
「相手が光彦なら、頭突き食らわしてるだろうな」
 照れくさそうに微笑んだ純生の額に、こつんと自分の額をぶつけてから、嵐は、右腕に純生の頭を巻き込んで、華奢な身体を押し包むように抱きしめた。純生の体温が流れ込んでくるような感覚に、眩暈を覚える。同性同士でこんな風に抱き合って寝るなんて、家族でもなければ異常としか言いようが無いが、純生相手ではもはや毛ほどの抵抗も感じない。純生の風貌のせいだろうかと顔を覗き込んでみれば、ぱちりと瞬いた純生の大きな瞳とかち合って、嵐の心臓の辺りが微かに甘く疼いた。

「僕ね……偶然、見ちゃったんだ。光彦と、篠原君がキスしてるところ」
 嵐は、純生の髪に鼻先を埋めて、静かに耳を傾けた。
「僕、わけがわからなくなっちゃって……そのあと、篠原君に、“あげない”って……言っちゃった」
「え……? 篠原と、話したのか?」
 純生は、嵐の胸に頬を擦り付けるように、こくりと頷いた。
「自分でも、どういう意味で言ったのか最初はわからなかったけど」
 純生の声に、また湿り気が帯び始めていた。 嵐は、相槌を打つ代わりに、両腕に力を込めた。
「光彦がね、篠原君のこと……輔って、呼んだんだ。それが、たまらなく嫌だった。……やっぱり、嵐や光彦が、他人のことそんな風に呼んだりするの、許せない。二人がどこかへ消えちゃったら……なんて考えたら、馬鹿みたいに泣けてきちゃうんだ」
 純生は、嵐のトレーナーの胸元をぎゅっと掴んだ。「どこへも行かないから」と純生を宥める。
 純生の不安は、どちらが一番の仲良しかで友達を取り合う子供のような、幼稚な独占欲と嫉妬心の延長線上にあるように思えた。だが嵐には、そんな純生を子供だと一笑に付すことはできない。光彦が篠原を『輔』と呼んだ、と純生の口から聞いたとき、例えようも無い不快感が、嵐の内にも確かに湧き上がっていた。

「――あのね、それでね……」
 言葉尻を濁す純生に、「うん?」と嵐が先を促すと、一瞬、腕の中の細い身体が強張った。純生の変化に戸惑い、表情を窺おうと身体を離そうとすると、唐突に首に回された腕に引き戻される。
「なんでもない」と、純生は蚊の鳴くような声で呟いた。一抹の寂しさが心に過ぎったが、嵐は、それ以上追求しなかった。
「純生。……明日、二人で学校さぼろうか。あの節操なしの阿呆を、焦らせてやるんだ」
「だけど、息苦しくなっちゃうかもよ?」
「そうかもしれないけど、光彦よりはマシだろ? だって、俺と純生は一緒にいるわけだし」
「うん――そうだね、どこへいこうか?」
「純生の行きたいところ、どこへでも付き合うよ。遊びに行って、それから純生は、明日の晩も俺の部屋に泊まるんだ」
「明日も? いいの?」
 きょとんとして顔を上げた純生に、嵐は、笑みを返すことができなかった。
 明日――正確には、今日――の夜、純生の携帯は鳴るだろう。電源を切ってしまうのは容易いが、それでは何の解決にもならない。嵐は、純生の受けるだろう衝撃を共有し、自分が貰った分だけの慰めを、返したかった。


 中空の一点にぼんやり焦点を結んで、今日という一日を振り返る。
 飽きればまた違う対象を探すだけ――果たして、問題はそんなに単純だろうか?
 大体何故、光彦は『許し』など求めたのだろう?

 次から次へ湧き出してくる疑問符を、嵐は、強制的に頭から葬り去った。純生がいなければ、今頃は部屋の模様替えを始めていただろうと思うと、腕の中の温もりが有難くて涙が出そうになる。考えるのは、明日からでいい。取り留めなく悩み続けてしまう厄介な性分を自覚しているだけに、そう思えるのが不思議だった。
「嵐……僕、眠い……。寝ちゃうのは、勿体無いような気がするけど……」
「うん……、おやすみ」
 毛布を掛けなおして、純生の背を撫で摩ってやる。そうしているうちに、嵐にもまだるい睡魔が降りてきた。
 二人が、穏やかな寝息を立て始めたのは、ほぼ同時刻のことであった。



 その頃、光彦は。
 四畳半のカオスを斜めに縦断した光彦の立派な体躯はさらに左右に広がって、見事な大の字を描いていた。ランニング一枚を胸までたくし上げ、下肢には何もつけていない、およそ原始の時代に近い姿で、光彦は一ヶ月ぶりの安眠を貪っていた。丸まったティッシュが、季節外れの雪のように部屋中に降り積もり、ある種の幻想感を醸し出している。窓を開けていなければ、大漁旗を誇らしげに掲げ凱旋してきたイカ釣り漁船の船上のような臭気が充満していたのであろうが、熱帯夜続きの夏を乗り越え九月も半ばになった今、独特な涼気を孕む秋の夜風を堪能しない馬鹿はいない。エアコンのない光彦の部屋はなおさらのことで、実際、ヤニにくすんだ光彦の部屋のカーテンは優雅に泳いでいる。ラウドな寝息は今日に限っては密やかで、規則的に上下する胸の隆起が、光彦の眠りの深さを物語っていた。

 もう粉すら出ない、というまでに光彦は一ヵ月分の鬱屈を放出した。最初の頂に到達した瞬間は、歓喜のあまり万歳をしながら宙へと飛散していく幾数万の精子たちが、眼に見えるようであった。
 ビデオでもなく、秘蔵のエロ本でもなく――右脳を差し置いて左脳ばかりが人並み以上に発達してしまった光彦にとっては、例え相手が定まっていたとしても、イメージのみで創りあげた架空のシナリオで達するのは酷く骨の折れる作業であった。しかし、若さと、溜まりに溜まったストレスが解放を手伝った。そうして光彦は、ようやく安らかな眠りを手に入れた――筈なのだが。

 レム睡眠の周期にさしかかったらしき光彦の眼球が、目蓋の奥で忙しなく動き出す。片眉が、ピクンと痙攣したのを合図に、眉間に寄せられた皺はみるみるうちに深くなり、光彦は、唸り声のような声を漏らした。額に噴出した脂汗と、固く握り締められた両拳が、悪夢の訪れを示している。

「……ーん……」
  不明瞭な寝言は、奇妙に恨みがましい声。
「……らーん……、このや……ろ……」
  続けて声の音量は上がり、光彦は、はっきりと嵐の名を口にした。
「……っそぉ、覚えてろよ……らーん……」
 それから幾度か嵐の名を含む寝言は繰り返され、数分経過。
 やがて光彦は、痛憤滾る絶叫を咽から迸らせながら、上半身を跳ね起こした。


「嵐――ッ! 海パン脱げやゴルアァア――ッ!!」


 そう――。光彦が眼にした嵐と純生の裸とは、あくまで海パン付きの、オカズにするにはあまりにも物足りない、お粗末な代物であった。貧困な想像力のせいか、光彦の内に秘められた良心のせいか。光彦は、妄想の中でもついに嵐の海パンを剥ぎ取ることができなかったのだ。
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