嵐 秋葉原へ行く

 嵐は、後悔していた。
 純生の行きたい場所といえばここ以外にはない。こんな単純なことに、どうして気が付かなかったのだろう、と。

 純生の普段着といえば、制服とあまり代わり映えのしない白無地のシャツ、Vネックのサマーセーター、淡い色合いのコットンパンツ。『ひろさん』が買ってきてくれる服を適当にクロゼットから引っ張り出して着ているだけだと語っていた純生は、服装には一方ならぬこだわりを持つ嵐を、かつて驚かせたことがある。
 ――それでは、今の純生の格好をどう説明付けたらよいのだろう?

「着替えてきたのはいいけど、その格好は……」と、嵐が純生から一歩離れた位置から語尾をぼやかす。
 明らかに身体のサイズと合っていないフードトップ。胸元に描かれた半円の中にはペンギンのキャラクター、その傍らには「linux inside」の文字。ロールアップしたダブダブのジーンズに、PFフライヤーズのローカットスニーカー。純生の顔の半分を覆い隠す時代遅れなべっこう眼鏡は、重さのあまりか鼻からずり落ちそうになっており、背中には、純生が背負われたほうがいいだろうと思えるような巨大デイパック。仕上げに、ニットキャップを目深にかぶれば、純生は、全方位どこ向けてもちょっと怪しい電波を発している人、であった。

「そう? ヘンかな? この服は全部自分で買ったんだ。上着はアメリカから個人輸入したんだよ」
 純生は、人差し指で眼鏡を引き上げ、やや自慢げに言った。
「その眼鏡が……やっぱりちょっとヘンっていうか、怪しいっていうか……」
「ここで顔なんて晒したら、カメラ持った人に追いかけられちゃうよ。一度、酷い目にあったことあるんだ」
 タイミングよく、二人の前方から近づいてきた男は、大きな一眼レフカメラを首からぶら提げていた。ターゲットを見つけたと思しき男の行動は素早かった。男は、にわかに鼻息を荒くし嵐と純生を押しのけるようにして走り出し、ナース服に身を包んだ女性に駆け寄った。女性は慣れた風にレンズに向けて笑顔でポーズをとっているが、あれが純生の立場であったなら、間違いなく肉食獣に追い詰められたウサギであろう。
「……純生の人生は、常に危険と隣り合わせなんだな……」と、しみじみ言うと、
「ほんと。嫌になるよ。嵐と光彦がいなかったら、僕、中学から引きこもりやってたと思う」
 聞くなり、胸のうちに温かなものが湧き上がるが、嵐の仄かな感動はあっという間に打ち消されてしまう。
「ここでは、僕より嵐のほうが場に馴染んでるかもね」という、純生の一言で。

 あぁ、やっぱり――。
 嵐は、一張羅のライダースの襟元にしばらく視線を留めてから、あらためて辺りを見回してみた。
 仲間がたくさん――……

 昭和と二十一世紀が混沌と入り雑じり近未来と化した街、秋葉原に行き交う人々のほとんどは、スーツ姿であったり、パーカーにジーンズといった出で立ちのごく一般的な若者ではあるのだが、どうしても視線が『一般的でない人々』の方に集中してしまう。
 金髪はもちろん、シルバー、ピンク、グリーン――およそ人毛とは思えないコバルトブルーに見事に染め上げられた髪に、メタルというよりはパンクなファッションに身を包んだ少年の一団が、駅前の一角を陣取っていた。ギターかベースを背負わせればこれからスタジオ入りと見えなくもない、嵐にとっては共感の持てるはずの風情なのだが――決定的に、何かが違う。
「あれ、みんな女の子だよ。V系のコスじゃないかな」
「……お、女の子? うそだろ?」
 V、と言われて真っ先に頭に浮かぶのはフライングV。“コス”の意味するところがコスプレ――コスチューム・プレイ――であることは辛うじて理解できたが、“V系”が、所謂ヴィジュアル系バンドの略であることを解するまでに、随分と時間がかかった。言われてみれば。男にしては背が低く、線が細すぎる。揃いも揃って美形なのも、違和感があった。今日がアキバデビューな嵐は、慧眼恐れ入ったとばかりに、純生に向けて感嘆の息を吐いた。

 平日の昼前とはいえ、ここは天下の秋葉原駅前、電気街口。
 嵐は、秋葉原駅に降り立ったとき、周囲の温度が二度は上がったように感じた。改札を出て直ぐ、嵐を出迎えたのはペールピンクのエプロンドレスを纏った、不思議の国からやってきた少女であった。「よろしくおねがいしま~す」と何が鳴いたかと思うような声で呼びかけられ、差し出された紙片を反射的に受け取ったら、次に、「いってらっしゃぁーい、ご主人様♪」と何処へかと送り出された。「ご主人様って、俺のことか? どこへいけばいいんだ?」と、純生に訊いてみたら大笑いされたので、嵐は閉口した。秋葉原は、純生の縄張りである。何を言っても笑われるだけだと悟った嵐は、徹頭徹尾、秋葉原から離脱するまでは、口を閉ざしていようと心に決めた。

 それからしばらく歩いて、再び『一般的でない人々』に遭遇した。円を描く人垣の中央に置かれたラジカセから流れ出した音楽。集団は、沈黙を誓った嵐に吃驚の声を上げさせるほどの突飛な行動に出る。
「お、おい! 純生、あそこの集団、踊りだしたぞ」
 笑いながらハミングついでに楽しげに踊る集団を、嵐は思わず指差してしまう。
「へぇ、平日なのにいるんだね。日曜のホコ天に向けて、練習してるのかな」
 純生が何ほどのことでもないとサラリと答えたので、嵐は、これからどこへ連れて行かれるのかと不安になってきた。どこへでも付き合うと言った手前、口にするのは憚られたが、できることなら硬派ヘヴィ・メタルの名を汚すような場所には行きたくない。
「も……もしかして……あのメイドさんとかいる店にいっちゃったりするのか?」
 純生は、カラカラと笑った。
「行かないよぉ。僕、メイドさんに『萌え』はないもん」
「……じゃあ、フィギュアの店とか……?」
 往年のギターヒーローもフィギュア化されるこのご時世、嵐とてフィギュアの存在くらいは知っている。しかし、悲しいかな所詮は聞きかじり。純生は突然立ち止まり、嵐に向き直った。向けられた冷ややかな眼差しに、嵐が一歩後ずさる。
「僕は生粋のギークだもん。フィギュアに用はないよ。僕が萌えるのは、CPUとかマザーボードとかビデオカードとか……バルク品の山にも熱くなるかな。なんてったって、僕が一番幸せ感じるのは自作マシンにベンチマーク走らせてる時なんだから」
「……ギー……? ベン……?」
 ギーク(GEEK)がIT技術系オタクの総称であること、ベンチマークがパソコンの処理速度を測定する特別なプログラムであることなど、嵐が知る由もない。純生の並べる意味不明な単語を、嵐はおうむ返すことすらできなかった。しかも、眼鏡の奥の瞳が苛立っているように見えて、何が純生の神経に触ったのか、嵐は戸惑っていた。
 腕組みをした純生が、剣呑と嵐を見据える。
「嵐――。なんだか、オタクに偏見持ってない?」
「も、持ってないよ」
 ちょっとしか、と嵐は心の奥で補足した。嵐の迷想を読み取ったのか、純生は、不満そうに腕を組みなおした。
「大体、嵐だってヘヴィメタオタクじゃないか。同類に偏見持つなんて、おかしいよ」
「おたッ……俺がオタクだってッ!?」
 仰天して裏返しな声を上げた嵐に、純生は「自覚がないって怖いね」と冷たく言い放ち、止めにやれやれと肩を竦めた。

 オタクだなどと、言語道断極まりない。マニア、フリークス、エンスージアスト――言葉の亜種は多々あれど、嵐はそのどれにも己を当てはめたことが無い。嵐は、己こそ『ヘヴィ・メタルそのもの』だと自らを評価しているのだ。だのに、『ヘヴィメタオタク』と一言で切って捨てられ、嵐は、怒るより先にショックを受けてしまった。項垂れて、一人ぶつぶつと自問を繰り返す。
「……オタク……俺が、オタク……」
「嵐のどのヘンがオタクじゃないのか、僕のほうが訊きたいよ。用も無いのにギター背負ってるし、手首にトゲトゲ生やしてるし、ガイコツの気持ち悪い指輪してるしさ。嵐の着てるそのTシャツだって、僕には“直流/交流”って意味にしか見えないけど、それ、見る人が見ればわかるってマニアな代物でしょ? 僕の“タックス”とどこが違うのさ?」
 タックス、とはリナックス・ペンギンの愛称――などと、やっぱり知るはずもなく。純生のご高説もどこ吹く風、自慢のAC/DCティーをとぼけ顔のペンギン・キャラクターと一緒くたにされても、反応を返すことすらできない。嵐は、自らのオタク疑惑を解消するため、必死に脳内ロジックを構築中である――が、次の純生の一言は、嵐の度肝を抜いた。

「嵐みたいな格好、ここでは『コスプレ』って言うんだよ」
「こッ……こ、コスプレッ!? 俺の格好が、コスプレッ!?」
 尤も千万と頷く純生に、今度こそ嵐は憤慨した。
「俺はポリシー持ってこの格好してんだぞ!? コスプレってなんだよコスプレってッ!!」
 またもずり落ちた眼鏡から覗いた純生の双眸は冷静この上なく、嵐相手にオタク議論で負けるつもりは無い、と強い意志を漲らせている。
「僕やさっきのあの娘たちに、ポリシーが無いとでも思ってるの? 馬鹿にしてるよ。僕の部屋にあるパソコンをギターに置き換えてみなよ。嵐の部屋とおんなじじゃないか」
 嵐は、言葉を失った。好機と見て取った純生が、矢継ぎ早に畳み掛ける。
「僕がPCを作るとき、どれだけ愛情を注ぐか知らないでしょ? プラモデルみたいに、ただ組み立てるだけじゃないんだよ? 育てるんだ。BIOSをチューニングしたり、CPUをクロックアップしたり、熱暴走しないように冷蔵庫みたいに冷やしたりしてさ。手間をかけてチューンアップしたPCが、ベンチマークで最高値を叩き出したときの喜びったらないよ。そういうPCでプログラミングすると、不思議とバグも少ないんだ。……どう? 嵐のギターへの気持ちと変わらないでしょ?」
 純生が何語を話しているのかはさっぱりであったが、コンピュータへの盲目的な愛情だけは痛いほど解った。なにしろ、嵐の半身ともいえるフライングVを引き合いに出されたのだから。
「……でも俺は……コスプレじゃないし……」
 ようやく小声で、それだけ言い返すことができた。勝利を確信した純生は言うだけ言って満足したらしく、嵐の腕に両手を絡ませて嫣然と微笑んだ。そして、颯爽と歩き出す。
「一人だと怖くってあんまりうろちょろできないんだよね。今日は嵐もいるし……行きたいところがいっぱいあるんだ。トクモでしょ、僕コンでしょ、テックハウスに仙石! それから、嵐の喜ぶところにも連れて行ってあげるよ!」
「俺の、喜ぶところ……?」
 嵐は、訝しげに訊き返した。一分一秒でも早くこの場から離れたい、そして、西新宿のうらぶれた路地に逃げ込みたいとすら思っていた嵐にとって、ここに喜ばしい場所があるとは思えない。「楽しみにしてて」と人差し指を唇にあてて上目で覗き込んでくる純生に、嵐は、引きつった苦笑いで応えた。

 昨晩まで細い肩を震わせて泣いていたというのに、純生という人間はつくづく掴みどころがない。傷つきやすく臆病で、他人とはまともな会話ひとつ交わせないくせに、時折、決して譲らない頑固さを見せ、身内に甘えるときにはそれこそ情け容赦がない。頑なで融通の利かない性格の己に比べ、純生の精神はしなやかだ――
 引きずられるように歩きながら、嵐がぼんやりそんなことを考えていると「聞いてる?」と引き戻され、あわてて頷き返す。
「今度はね、手乗りサイズのPCを作るんだ。パソコンなのに、インコみたいに手乗りなの。ノートPCより全然小さいんだよ? 可愛いでしょう? 嵐も欲しい?」
 嵐は、身振りで『結構です』と伝えようとしたが、純生の意識はすでに、頭上から降ってきそうな夥しい数の看板類に向いていた。眼鏡の奥で、薄墨色の虹彩が夢見がちに煌いている。
「スーツケースの隅っこにちょこんと収まるようなPCを作って、それをお母さんとお父さんにプレゼントするの。世界中どこへいっても、電源を入れるだけでサクサク動いちゃうような高性能の手乗りPCだよ? すごいでしょ?」
 ああなるほど、と呟いて、嵐は眼を細めて純生の横顔を見た。
 純生にとってパソコンとは、一年のほとんどを離れて暮らす両親との絆をいつでも確かめ合うことのできる、魔法の箱なのだ。手乗りサイズにするのはペットのように愛玩したいからでなく、ホテルからホテルへと移動を繰り返す両親のために、少しでも荷を軽減してあげたいという、健気で優しい純生の気持ちであった。
「ね、嵐にも作ってあげるよ! 部屋が広くなるよ?」
 蕩けるような純生の甘え顔は、家族以外、自分にしか向けられることはないだろうと思うと、途轍もない優越感を覚える。純生を抱きしめてしまいたい衝動に駆られるがここは天下の往来、嵐は、心にハチマキをまいた。冷静に考えてみれば、自室のパソコンが小さくなるのは嵐とて大歓迎だ。
「……よし、身辺警護でも荷物持ちでも、なんでもしてやるぞ」
 真面目顔を作って、純生に二回頷いて見せる。今日は純生を甘やかす、と決めてやってきたのだから。


 大きな紙袋をいくつも提げ、意気揚々と旧繁華街を行く二人の足取りが、ほぼ同時に止った。
「またか」と嵐が目線で促すと、純生は振動する携帯をポケットから取り出し、「今度はメールだね」と、点滅する封筒マークを指差して言った。朝から尻ポケットに差し込んだままにしている嵐の携帯も、工事現場のように煩く振動し続けている。
「まったく、十五分に一回はメールか着信がくるな。あいつ、授業に出なかったのか?」
 メールの文面を確認した純生が、プッと噴出した。
「今すぐそっち行くから場所を教えろ――だって。どんどん内容が切羽詰ってきてるけど、どうする?」
「無視に決まってるだろう?」
 フンと鼻を鳴らした嵐に、純生は怪訝そうな眼を向けた。
「そういえば僕達、息苦しくならないね。……携帯が鳴りっぱなしのせいかな」
 二人とも電車に乗る前にマナーモードに切り替えたが、電源は落とさなかった。お陰で、バッテリーの目盛りは、今にも悲鳴を上げそうである。
「あいつ今頃、死にそうになってるかもな。……ざまぁみろだ」
 親友を夜のオカズにした代償は、高くつくのだ。このまま一週間くらい光彦を苦しめ続けてはやりたいが、そうもいかない。学校を無断欠席をした連絡が、今頃親元に届いているかもしれない。そう考えると、ヘヴィメタではあっても親の信頼を損ねたことのない嵐の心は、自然と暗い影に領されていく。
  足取りの重くなった嵐の肩を、純生が不意に突付く。顔を上げて――嵐の表情は、狐につままれたようなものに変わった。

「純生……あれ……」
「うん、嵐を連れてきたかったのは、ここだよ」

 楽器を見に行くなら御茶ノ水だと決めていた。ギター雑誌の広告で店の存在は知ってはいたが、場所が秋葉原というだけで行きたいという気持ちになれなかった。だから、目の当たりにするのは、初めて。
 九階建てのビルの壁面を飾る真紅のES-335に、嵐の瞳は釘付けになっていた。
 部屋に飾っておくだけで、その優雅な佇まいにうっとりとするであろう、美しくなだらかな、バイオリンのようなシルエット。無論、嵐にとって『最愛』の対象は、今背中にあるフライングVでしかないのだが、ロックの歴史を語る上で欠かせないリチャーズやクラプトンの愛するギターを、どうして憧れずにいられよう。いつかは、サウンドホールの奥にオレンジ・ラベルの輝くヴィンテージが欲しいと嵐が夢見ていたギブソンのセミ・アコースティックギター、ES-335TD。そのフォルムを象った巨大なモニュメントが今、眼前にある。嵐の心は、一気に沸き立った。

「お――俺、ストラト用のピックアップが欲しいんだ! そうだ、昨日の掃除で専用ポリッシュも無くなったんだっけ! レスポールの試し弾きもしてみたいッ!!」
 両手一杯の紙袋もなんのその、九階建ての楽器店へと走り出した嵐の背を、純生は、幸せそうに眼で追った。
「わかったでしょ? 秋葉原は、オタクの全てを満足させる街なんだよ!」
 さすがに同意はしかねたが、嵐の逸る心はもう止まらない。振り返り、わかったから早く、と全身で合図をして純生を急きたてる。
「待ってよ、置いていくなんて酷いよ!」
 よいしょと膨らんだデイバッグを担ぎなおして、純生も駆け出した。

 密やかに落ちてきた秋の夕闇に、紛い物然としていた風景が立体的な秩序を形成していく。秋葉原は、いつの間にか幻想的な夜景の街へと、その姿を変貌させていた。賑々しく瞬きだしたネオンは、二人の未来を祝福しているかのようであった。


参考文献:枻出版社/ヴィンテージ・ギター/特集ギブソンES-335
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