オペレーション・オーヴァーローズ - aka"The Longest Day"

 着替えを取りに一度家に帰る、と言い残して家路へついた純生の背を見送ってからしばらく、嵐は塩田家の門扉の前で立ち木のように突っ立っていた。辺りはすっかり夜の帳が落ち、塩田家の窓からは温かい団欒を滲ませるようにほの明かりが漏れているが、今に限ってはどこか他人の家のような佇まいであった。不意に、母の影がカーテンを横切る。嵐の胸は痛んだ。
 中等部時代に喧嘩騒動を起こした過去はあるが、それも、やりすぎたとは言え正当防衛だった。夏の旅行で酒は飲んだが、記憶にある限りの顛末を正直に両親と兄に打ち明けた。嵐にとっては、今回のサボタージュが家族に対しての初めての裏切り行為であった。言い訳をするつもりはない。潔く頭を下げるつもりだったが。

「ランちゃんッ! 学校に行かないならそう言ってってよ! お母さん、先生からの電話にしどろもどろしちゃったじゃない! 悔しいわ、知っていたらもっと上手に嘘をつけたのに!」と、母。
「ロッカーたるもの社会に順じてばかりじゃいかん。たまには冒険も必要だ」と、父。
「おー嵐、帰ったか! 今日はデートか? あとで詳しく教えろよ」と、兄。

 玄関の扉を開けるなり、そうした内容のト長調混声三部合唱が嵐を出迎えた。「心配かけてごめん」と項垂れて呟きかけると、
「嵐は、たまに羽目を外すくらいのほうが丁度いいんだよ」
 と、兄は苦笑いで答えた。折に触れ、自分は真面目すぎるのではないかと不安に駆られることのある嵐は、家族にとってもそうであったのだと、兄の一言で全てを納得する。嵐は、荷物を部屋に置きに戻らずに、そのまま居間で夕食を取った。テーブルの上に並ぶラップをかけられた料理の数々が、家人を随分と待たせていたことを物語っていたからである。
 二階で夕食を済ませてきたのだろう兄、修也は、缶ビールを傾けながら興味津々と眼を輝かせて、今日の戦果についてあれこれと詮索してきたが、嵐は、秋葉原の楽器店に行っただけだと端的に答えた。「なんだ、つまらん」とあからさまに興醒めた顔をされたので、却って期待を裏切ってしまったようで、申し訳ない気持ちになった。「一人で一日中、秋葉原にいたのか?」と、尚も問い詰められ、純生の名を出すのはどことなく気が引けたので、無理やりに白飯を口一杯に送り込み、もそもそと無言で咀嚼を繰り返した。
「あ、そうだわ。夕方、ミキちゃんが来たわよ」
 母の無邪気な声は、嵐の顔から表情を奪った。慌てて口の中のものを飲み下したせいで、咽てしまう。嵐は、冷水で満たされたコップを一息に干し、母の顔を窺った。
「……光彦、なんか言ってた?」
「ううん。しばらくランちゃんの部屋で待ってたみたいだけど……」
 母は、その後は知らないと素振りで答えた。思わず箸を持つ手を止め黙りこくってしまったためか、視線が一斉に己に注がれたのを感じて、強引に唇の両端を引き上げる。
「一日中歩き回ったから、疲れちゃったよ。風呂、沸いてるよね?」
 嵐は、箸を揃えて食べかけの茶碗の上に置き、席を立った。

 行水程度に入浴を済ませ部屋に戻った嵐は、純生の来訪を待った。数時間前まで、光彦がいた部屋。煙草の残り香に加えて、洗剤の臭いもまだ微かに残っていて、どうにも居心地が悪い。携帯は、昼間から変わらず十五分おきに鳴り続けているようで、着信とメールがそれぞれ三件ずつ記録されている。純生からの連絡でないことだけを確認し、充電器に携帯を差し込んだ。
 デートかと兄に訊かれて、一瞬どきりとした。今日一日、そんな甘い空気も漂っていたような気がしないでもない。相手は男だからやっぱり違うよな、と己に言い聞かせてみるが、純生を抱きしめて寝た一夜を思い出し、親友の域から逸脱している関係性の異常さに改めて戸惑う。思考が無限の廻廊へと引き込まれそうになるが、今は駄目だ、と頭を振って戒めた。考えるべきは、まずは光彦の問題だ。
「純生……早く来てくれ……」
 酷く情けない気分で、嵐はそう呟いた。


 日付が変わろうという頃、ようやく純生は現れた。部屋に入るなり、鞄からパジャマを取り出し純生が着替えを始めたので、嵐は急いで部屋を出ようとしたが、「お腹も減ってないし、咽喉も渇いていないよ」と純生の声に引き止められて、自分の部屋だというのにすっかり居場所を無くしてしまう。純生に背を向ける格好でCDを選ぶ振りをしていると、衣擦れの音に混じって、蚊の羽音が聞こえてきた。嵐は、この音を何度聞いても不快だと思う。純生が「授業中に鳴っても大人には聞こえないから大丈夫」と自慢していた、巷で流行っているらしき携帯の着信音だ。
「ずっと鳴りっぱなし。バッテリーの充電に時間がかかっちゃったよ」
 純生の表情は明るかった。光彦の告白をすでに聞いた後ではよもやあるまいとは思ったが、
「光彦からの電話、出てないよな?」と、念を押してみる。
「うん。嵐が出るなって言ったんじゃない。でも……なんだか哀れになってきちゃったよ」
「あいつに同情なんてしなくていいッ!」
 出し抜けに声を荒げた嵐を、純生は屈託のある面持ちで見上げた。不快な羽音はしつこく鳴り響いている。嵐は、再々の無力感に襲われて、崩れるようにその場に座り込んだ。
「……純生、出てもいいぞ」
「そうだね、もう充分に懲らしめられたかな」
 嵐の横に膝を抱えて座り、通話ボタンを押そうとした純生の手を咄嗟に制する。不思議そうに瞬いた純生の眼を揺るぎなく見据えて、嵐は、傍にいるから、と心の中で強く訴えかけた。
「ヘンな嵐」
 純生はからかうように言って、通話ボタンを押した。

『電話にぐれぇ出やがれッ! 死ぬかと思ったじゃねぇかッ!!』

 通じるや否や発せられた、携帯のスピーカーを壊さんばかりの光彦のどら声。耳に当てる前で良かった、と純生は携帯を指差し、嵐に苦笑を投げかける。だが嵐は、眼を剥いたまま塑像のように動かず、口を引き結んで純生を凝視している。純生は、釈然としない顔付きで、携帯を耳もとへと運んだ。
 今日一日光彦がどう過ごしていたのか、如何に酸欠で苦しんだのか。漏れ聞こえてくる向こう側の怒り覚めやらぬ声と、してやったりと楽しげに声を弾ませる純生の受け答えとで、交わされている会話は把握できた。願わくばこのまま、光彦の下らない愚痴話で幕引きを迎えたいが――嵐の願い空しく、その時は、唐突にやってきた。

 純生の顔から表情が消え、唇がみるみる蒼褪める。油の切れたブリキ人形のように、純生は、ゆっくりと嵐のほうへ顔を振り向けた。驚き、怒り、焦り――果ては諦めと決意――そんな感情が混ざり合ったような複雑さをほんの一瞬双眸に宿して、やがて純生は空を仰いだ。小さな咽仏が、何かを飲み下すようにコクリと上下したのを機に、耳が痛くなるような静けさは、僅か数秒であっけなく終わった。
「……うん。いいよ、別に」
 それが、純生の答えであった。好きにすれば? と言い捨てるような、素っ気無い口調。
 胸に飛び込んでこようものなら全身全霊で純生を受け止めよう――そう思いを定め、下腹に力を込めて身構えていた嵐は、そんな馬鹿な、と真っ先に我が耳を疑った。少なくとも嵐は、まず現実として受け入れるまで白い亜空間をたっぷり彷徨い、これが現実だと認識できてしまえば、無駄な足掻き以外の何物でもない抗弁を弄した。だのに純生は、己がどう答えるべきかを先験的に知っていたかのように、あっさりと了承する。そして、続く言葉はこうだ。
「その代わり、本物の僕に手をだしたりしたら、向こう一年分の『よっちゃん』の売り上げ、闇に葬ってやるから。お父さんを泣かせたくなかったら、妄想だけにしておいてね」
 純生は、声のトーンを一段階落とした。
「確実に、お店つぶれちゃうね。光彦……僕に、できないと思う?」
 純生の態度は『峻厳』と例えるのに相応しく、間違いなく光彦は、その静かな恫喝に薄ら寒い恐怖を覚えたであろう。
 嵐は、光彦に言った「血を見ることになる」という脅し文句を、上出来だったと自己評価していた。しかし純生のそれは、対峙した相手だけでなく、辺り構わずに霜を降らせてしまうような威迫であった。パソコンを介してネットワークを意のままに操れるという純生の自信が、脅しに充分過ぎるほどのリアリティを加味している。
 嵐は、一連のやりとりに、立て続けに苦い敗北感と挫折感を味わった。


 通話を切った途端、純生は携帯を床に投げつけ、「馬鹿ッ! 変態ッ!!」と転がった無機物に向けて怒鳴った。すっくと立ち上がったかと思うと、純生は黙然と嵐のベッドを広げ始める。その上に身を投げ出すように横たわり、毛布をすっぽりと頭まで被ってしまう。しばらくは言葉もなく純生の背を眼で追っていた嵐であったが。
「い――いいのか……? そんな、簡単に……」
 やや間をおいて、毛布のフィルターを通してくぐもった声が返ってくる。
「いいよ。嵐は知らないだろうけど、僕なんてアイコラマニアの格好の標的なんだから。女の子になったり、猫耳つけられたり、いろいろなんだよ? どうやって調べたのか解らないけど、ときどき僕のメールに画像が送られてくるんだ。そういうのが何の目的で使われるのか、僕だって知ってる。気分は最悪だけど、いまさら光彦一匹増えたところでどうってことないんだ」
 純生の口振りは、自分に言い聞かせているようだった。嵐は、背筋に冷たいものが滑り落ちるのを感じた。“アイコラ”の意は解せずとも、つまり純生は、同性からオカズにされることには慣れている、と言外に仄めかしているのだ。認めたくは無いが、純生の見てくれであれば十二分に理解できる。例えば純生と一面識もなく、「女の子だ」と紹介されれば、一縷の疑いも抱かずに信じてしまうだろう。
 であれば、なぜ俺が?
 嵐は、三六〇度何処から見ても“男”――なのだが、光彦は同性愛者であるからして、この問答は意味が無い。光彦の性的嗜好など、嵐には解りようもないからだ。

 やはり純生は、勢いで答えてしまっただけではないのか。純生が今の窮境をきちんと理解できているのか、嵐は確かめずにはいられなかった。
「だけどさ……これは俺たちの友情の危機なわけで、光彦の願望の先には……その、それ以上を求められることも考えられるよな……?」言葉を選んで訊いてみれば、
「そうなったら、そうなってから考える。どっちにしろ、僕は嵐や光彦から離れられないんだから」と、即答が返ってくる。
「いや、そうなってからじゃ遅いんじゃ」言いかけた嵐を、がばっと跳ね起きた純生の行動が遮った。
「嵐。知ってたから、優しかったんだ? だから、今日泊まれっていったの?」
「俺は……昨日の晩に……」
 真っ直ぐに向けられた眼差しから逃れるように、嵐は意味も無く部屋をぐるりと見回した。嵐の戸惑いを見て取るなり、純生は「そう」と暗い声音で呟き、再び毛布に潜り込む。嵐は、溜め息を吐いて、立ち上がった。

「となり、空けて」
 純生は毛布に包まったまま、ひょこひょこと動いてベッドの奥に一人分の隙間を作った。純生を踏みつけないように、慎重に毛布の繭を跨いで、ベッドに横たわる。
「純生、寒いぞ……」
 どうやら毛布を譲らないつもりらしい。嵐は、また溜め息をついた。
「おいで」と、右腕を伸ばしてやると、頑なに閉じられていた毛布の合わせ目はようやく開き、甘え盛りの幼児のような瞳が覗く。たった今、身も凍るような脅し文句を吐いた純生と、とても同一人物とは思えない。嵐が毛布に身体を潜り込ませると、当然のように純生は、額を胸に摺り寄せてきた。
「……本当に、『よっちゃん』つぶしちゃうのか?」
「まさか。面倒だし、犯罪者になりたくないもん」
 と、聞いても、純生ならやるかもしれない、という疑念が拭えない。嵐は、つくづく純生という人間が解らなくなってきた。
「純生は、平気なのか? だって今頃、光彦は……」
「考えても仕様が無いよ」
 そうだけど、と嵐は口ごもった。
「……明日さ、純生は、光彦といつも通りに話すことができそうか?」
「さあ、明日になってみなきゃわからない。……寝よ。もう一時だよ」
 それから純生は、小さな欠伸をした。この状況で眠れる感覚が信じ難い。
「俺は駄目だ。明日、あいつの顔まともに見れないと思う」
 毛布の中で背を丸め、寝る体勢に入ったらしき純生に、嵐は、「なあ」と呼びかけた。
「明日の朝……光彦にさ、俺が絶対やりそうもないことをしたいんだ。あいつにちょっと恥をかかせてやって、そのことで昼飯時に盛り上がれて、しばらくはそれをネタに光彦をからかえるようなこと」
 途端に純生は、ひょいと顔を上げた。眠気も吹き飛んだと言わんばかりに、「なにそれ、面白そう」と、声を弾ませる。
「何か――突拍子もないことをしてさ、全部、無かったことにしたいんだ。純生も、一緒に考えてくれないか?」
 うん、と力強く頷いた純生の瞳は、悪戯っぽく輝いていた。




 翌日。
 嵐と純生の朝は、早かった。西口商店街の店のほとんどは十時の開店であるから、昨晩のうちに純生がネットで検索した、三つ隣の駅前にある九時に開く店へと向かった。到着したのは、七時をようやくまわった頃。シャッターこそ開いていたが、店の主が仕入れから戻ってくるまでは商品を売れない、とアルバイトらしき若い女性店員に断られた。諦めて帰ろうとしたとき、純生が目聡く店内の隅に無造作に置かれた商品の一群を発見する。あれは売り物ではないから、と拒む店員に、嵐は、売ってくれるよう強引に頼み込んだ。余程の必死の形相をしていたのであろう、若い店員は直ぐに折れた。「店長には内緒ね」と目配せをしてから、商品を丁寧に包装してくれた。去り際、次の小遣いで必ずまた買いに来る、と嵐は彼女に約束し――そうして、嵐と純生は、目的のものを手に入れた。


 後ろ手に秘密兵器を隠し持って、嵐は、すうっとひとつ大きく息を吸った。純生に、うん、と頷きかけて。
「光彦――ッ!! いつまで寝てんだ、学校行くぞ――ッ!!」
 二階の窓に向けて力いっぱい怒鳴り上げ、それから待つこと三分。鳥の巣頭の光彦が二階からヌっと顔を出す。
「うるせぇぞッ! 近所迷惑だろうがッ!!」
「うるさいのはお前だッ! 早く来いッ! 先に行くぞッ!!」
 光彦はしばらく、不機嫌極まりない様子で二人を見下ろしていたが。
「……すぐ行く。ちっと待ってろ」
 頭をひっこめる刹那、光彦が微笑を浮かべた――ような気がするのは――寝起きの悪い光彦のこと、嵐は、やっぱり気のせいだと思い直す。それにしても、二日前のやつれ顔が嘘のような、血色の良さ。
「くそ、人の気も知らないで」
 かっと頭に血が上って、発作的に固めてしまった右拳を、純生にやんわり解かれる。嵐は、動悸を治めるように、胸に手を当てた。


「これ、やる」
 光彦の鼻先に、まるで銃口を突きつけるように嵐が差し出したもの。
「いらねぇ」
 眼を丸くしながらも間髪いれず、光彦は答えた。嵐は聞かない。武器の先端を、ずいと、光彦の顔に押し当てる。
「お前は今日、これを担いで、学校まで行くんだ」
 有無を言わせぬ嵐の語勢に押されて、光彦はしぶしぶ“それ”を受け取った。
「……こんなことして、楽しいか?」
「楽しいわけないだろう? 途中で捨てたりしたら、ぶん殴るからな」
 勘弁してくれ、と光彦は額に手のひらを当てた。
「学校についたら、捨てていいのか?」
「駄目に決まってる」
「どうすりゃいいンだよ?」
「知るか」
 顎をしゃくって、先に歩け、と嵐が光彦を急きたてる。光彦は「覚えてろよ」と捨て台詞を残して、開き直ったかのように大股で歩き出した。


「俺だってここまで持ってくるの恥ずかしかったんだから、光彦にはしっかり恥を掻いてもらわなきゃな」
 光彦の背に向けて毒吐く嵐。「本当だね」と純生が続く。二人から十メートルほど先に行ったところで、未練がましく後ろを振り返った光彦の顔のほとんどは――赤、白、黄、ピンク、オレンジ等々――とにかく、雑多な色の集塊に覆い隠されており、二人はその表情を窺い知ることはできなかった。しかし、向けられたのはさぞや恨めしげな顔であっただろう、と想像するだけで、嵐は溜飲が下がる思いだった。
 純生が嵐の部屋から探り当てた、一冊の雑誌。嵐所蔵のラウド誌の表紙を飾るミュージシャンの写真が、事の発端であった。厳しい面構えの外国人の肩に刻まれていたのは、大輪の薔薇のタトゥー。光彦に薔薇の花を贈るなんて、そんなまさか。嵐は「ありえない」と純生に食い下がったが、「ありえないことをしたいんでしょ?」と一蹴され、今に至る。

  商店街に差し掛かり、通学途中の学生で辺りは賑やかになった。前方を行く光彦は、女子高生からの写メ攻撃に晒されている。一見ヤクザ風、よくよく見れば高校生の光彦が、巨大な薔薇の花束を担いで通学路を行く様は異様だ。花弁の開ききった薔薇はそれぞれボリュームがあり、光彦が一歩踏み出すごとに花片を散らす。ラッピングは何重にもリボンを巻いてもらい、これ以上ないほどの乙女仕様。如何に光彦が肩をそびやかして歩いたところで、マヌケとしか言いようが――。
「……絵になっちゃってない?」
「……なってるかもしれないな……」
 そう、素直に口を吐いて出た。だが、女子高生の一団に囲まれてはフリーズしている光彦を見るのは、やはり爽快な気分であった。
 ぱっくり開いた傷口をホチキスで留めるような方法ではあったが、兎にも角にも日常に戻ることができた。
 今日、嵐にはもうひとつ、大事な仕事がある。
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