Low Light Supercharger -aka "Supercharged Sprinter"

 初めて抱きしめられた相手は、男(光彦)。
 初めて腕枕をした相手も、初めて抱きしめて眠った相手も、男(純生)。
 初めて花束を贈った相手も、男(光彦)。

「……やばい」
 授業中だというのに、心の呟きが思わず口を吐いて出てしまう。隣席の女生徒がチラリとこちらを窺ったので、嵐は、慌てて教科書を広げて顔を覆い隠した。
 光彦の性癖については、もう難しく考えないことに決めた。何か策を弄したところで所詮は人の心の問題。偉大な心理学者でも、心のメカニズムは得々と解説はできても具体的な解決策など授けてくれはしないだろう。だからこそ嵐は、あまりの馬鹿馬鹿しさに自分でも呆れるほどの奇行に及び、全てをリセットしたつもりである。
 だが、己の人生が、あらぬ方向へと流されつつあるのは嵐の本意ではない。この状況は、自らが敷いた未来へのレール――世界的なギターヒーローになるという夢――の、初めて相対する障壁のように思えてならない。花束を贈るだけならまだしも、この勢いではファースト・キ……

「わわッ! 消えろバカッ!」

 音吐朗々と漢詩を読み上げていた教師の声はぷつりと途切れ、教室中の眼という眼が、突如立ち上がって奇声を上げた嵐に集中する。しかし、おぞましい光景を頭から追いやることに気を尽くしている当の本人は、それどころではなかった。
「こら、塩田! 寝ぼけてるのか!?」
 名を呼ばれてはっと顔を上げると、チョークを構えた教師の険しい視線とかち合った。
「あ……え、と」
 我に返って教室内を見回せば、ぽかりと口を開けて金髪頭を見上げているクラスメイトの面々。普段がクソ真面目な授業態度なだけに、嵐の突然の乱心に、皆一様に驚いている。小さく肩を丸めて、嵐はすとんと席に納まった。
 俺としたことが。
 と、気を引き締めて教科書を睨んでみたところで、内容は一向に頭に入ってこない。想像してしまった“あるシーン”は今時の少女漫画に及ばないほどの稚拙さであったが、嵐にとっては衝撃が強すぎた。どの道、己の将来に漢詩など用は無い。嵐は、ぱたりと教科書を倒して両手で頬杖をつき、窓の外へと意識を飛ばした。

 そう、俺の未来は――。
 長らく思い描き続けてきた、未来の姿は。

 バッキングワークの終わりと共にヘッドを高々と掲げステージ中央へ、一点に降り注ぐスポットライトを全身に浴びる。待ちに待ったスーパーギタリストのターンにオーディエンスの盛り上がりは最高潮を迎え、そして始まるギター・ソロ。パワフルなピッキング、滑らかなハンドリング、スリリングなフレージング――額から飛び散る汗は光粒を弾いて輝き、フライング・アローはむせび泣く。
 超絶のギター・テクニックに導き出された荘厳なる音の洪水は、聴衆を呑み込み、圧倒し、魂を震わすほどの感動を呼び起こす。涙ながらにヘッドバンギングするオーディエンスから発せられる熱気は、霧のような飛沫となって会場を淡く烟らせている。ハンマリングオン、プリングオフ、タッピング――エモーショナルなチョーキング&ヴィブラート――ラスト、ヒーローは誇らしげに拳を天へ突き上げる。夢の終焉とともに湧き上がる狂熱的な歓声と万雷の拍手は、真のギターヒーローに向けて惜しみなく送られる――。

 ……待てよ?
 嵐は、ワンステージ分の妄想の終わりに、何か腑に落ちないものを感じた。嵐の未来のステージには、黄色い歓声が――存在しない。ボールルームを埋め尽くすのは見事なほどに男ばかり。嵐が今、己が神に向けてそうであるように、ギター小僧どもの羨望の眼差しこそ嵐の欲するものであるから、湧き上がる歓声は「キャー☆」じゃなくて、限りなくむさ苦しい「ウォオォー」。それも是非に及ばず、そもそも嵐は、「へヴィ・メタルは男の美学」というやや女性蔑視的な偏見の持ち主である。

  この嵐の偏見は、母親に起因する。父はジャパニーズ・ロックの草分け、内田修也のかつて崇拝者であった。その父の血を色濃く受け継いだ嵐の兄は、時代の潮流も手伝ってかラウド・ロックに青春の全てを投じた。そんな父兄であるから、塩田家の居間はトゲの生えた音符が飛び交っているのが常で、興が高じてくると、二人はステレオセットのボリュームを最大限まで上げて近所迷惑省みず大声で歌いだした。
「うるさいわよ! 音量下げてちょうだいッ!!」
 度が過ぎると、堪りかねた母が癇癪を起こした。母・朋子は家庭内で最強である。下手に逆らえば夕飯のおかずが物悲しいものとなるので、父と兄はしぶしぶとボリュームを下げたが、決まってこう負け惜しみを吐いた。
「女にロックの良さが解ってたまるか」
 男だけのロックの饗宴に、育つにつれ、いつの間にか嵐が加わっていたのは言うまでもない。

 女には眼もくれずギター道を突き進む青春時代、と考えれば納得も行くが、夢想する未来のステージまで観客は男ばかりというのはどうか。むしろ女の介入を好ましく思えないのはいかがなものか。
 ならばバック・ステージでグルーピーに取り囲まれてみようと、嵐は、さらに妄想を加速させた。気心の知れたバンドメンバー(もちろん全員♂)と、ギグの成功を祝って肩を組み合い、互いを称えあいながら美酒に酔う。汗に塗れたフライングVにキスを送り、抱きしめる自分の姿――を、背後から優しく見守るのは、巨大な薔薇の花束を持った二人の――

「わ――ッ!! いい加減にしろお前らッ!!」
「塩田ら――んッ!! 教室から出て行け――ッ!!」

 今度こそ教壇から飛来してきたチョークは、見事、嵐の肩にヒットした。と同時に鳴り出した授業の終わりを告げるチャイムに、嵐は救われる。「次は必ずお前を指すからな」と忌々しそうに言う教師に、嵐はチョークの粉を払いながら申し訳程度にぺこりと頭を下げた。顔を上げた拍子に、黒板の横に貼られた時間割が視界に飛び込んでくる。次は四時間目の数学A、その次は昼休み。今日の昼はなんとしても三人で食べたい。用事を済ませるのは、今を於いて他に時は無い。嵐は、机の傍らに立てかけてあるフライングVを一度は担ぎ上げたが、すぐに思い直して、また元の位置に戻した。ヘッドの辺りをひと撫でし、「大人しく待ってろよ」と囁きかける。休み時間は、たったの十分。嵐は猛然と歩き出した。


 扉を開けると、明らかに異文化を有する空間が広がっていた。嵐はいったん足を止め、廊下側に半身を引いて、頭上の梁にぶら下がる札を確認する。 『芸術特別L』――間違いない。
 自由に着崩すことが大目に見られている桜新学園の制服は在って無きようなものだが、そんな校風の中に於いても、この『芸術特別L』クラスを押し包む空気感は、クラス名の通り輪をかけて特別なものであった。嵐は、まるで何かのパーティ会場に紛れ込んでしまったかのような錯覚を起こした。
 まず眼に飛び込んでくるのは、教室の壁に所狭しと貼られたデッサンや水彩画。次に、スチール製の掃除用具入れの上に鎮座する、極彩色に塗り込められた前衛アート的なオブジェ。休み時間の生徒達の過ごし方も、一般クラスのそれとは明らかに異なる。油絵の具に塗れたつなぎ服姿の男子生徒は、クロッキー帳を広げて教室内の風景を描き留めている。隅を陣取る女子生徒の一団は、台本のようなものを広げて演劇の稽古に励んでいた。嵐の属する国立クラスでは嵐だけが悪目立ちしている感があるが、嵐の特異なファッション性もこの教室の中では埋もれてしまい兼ねない。『芸術特別L』クラスでは、それほど個性の強い面々が、短い休み時間を自由に謳歌していた。
 しかし、この個性的な集団の中にいて、際立って目立っているのが、学校指定のジャージという極めて平凡な姿で、窓際の席に憂い顔で頬杖をついている男子生徒であった。篠原輔。健康的に焼けた肌とは相反して、彼の周囲だけ空気が蒼い――そんな印象すら受けてしまうほど、繊細で静謐な雰囲気を全身に纏っている。

 手持ち無沙汰とばかりにぱらぱらと教科書を捲っていた手が止り、篠原は不意に顔を上げた。篠原だけではない、教室中の好奇の眼差しが扉の前で佇む異分子に向けられていた。嵐は、視線を跳ね返すようにズカズカと机の隙間を縫って歩き、目的の人物の前に立った。篠原は、溜め息で嵐を出迎える。
「今、一番見たくない顔なんだけど?」
 先手を打たれ、一瞬言葉に詰まる。
「悪い、ちょっと付き合ってくれないか?」
「いつも背中に貼りついてるアレ、どうしたんだよ?」
 からかうように言う篠原の眼は、冷たかった。
「置いてきた」
「すぐに授業が始まる。俺にサボれって?」
「五分で終わるから」
 嵐は、ぐいと篠原の肩を引いた。篠原は諦めた様子で立ち上がり、心配そうに見上げる友人らしき男子生徒に、「そういうわけだから」と、ひょいと片手を挙げた。

「どこへ付き合えって? 人前じゃできない話?」
 ポケットに両手を突っ込んで、嵐の後ろに大人しく従っていた篠原が、廊下を十メートルも歩いたところで焦れたように訊いてきた。
「そうだ。だから人目のつかないところがいい」
「裏庭ならお断りだ。それにB棟まで行ったら、五分じゃ戻ってこれないだろ?」
 きっぱりと言われて、嵐は困惑する。嵐の知る限り、学校で一番手っ取り早く人目を避けられる場所だった。
「塩田……用件を先に言えよ」
 歩みを止めた篠原は、もう梃子でも動かないと言いたげに嵐を睨んだ。廊下で息抜きをしていた生徒達が、ぽつぽつと教室へ戻り始めている。嵐は、篠原に向き合った。
「お前に、殴られにきた」
「……な……」
 返す言葉を失ったらしき篠原に、嵐は、大真面目に頷き返す。
「お前この間、俺を殴っただろう? だから……」
 篠原の形の良い唇が「あ」の形に開いた一瞬後、大きな笑い声が廊下中の壁に反響した。馬鹿にされるか、笑われるかのどちらかだと予想はしていた。嵐は、篠原が気の済むまで笑わせてやろうと思った。
「し、塩田って……や……やば、俺……塩田に惚れそう……」
「俺だって馬鹿だと思うけど、でも俺は、こうしなきゃいけないような気がしたんだ」
 ようやく笑いの治まりかけた篠原は、息継ぎのような呼吸を繰り返す。
「ひ、人目を避けたかったのは……俺のため? スポーツ特待が問題起こしちゃヤバいから?」
  嵐は、肯定も否定もせずに、真っ直ぐに篠原を見据えた。笑いが残る口許を斜めに歪めて、篠原はがっしりと嵐の肩に手をかけた。
「いい心がけだね。どうせなら五分なんてケチなこと言わないでさ、ゆっくりいたぶらせてくれよ」
 篠原はポケットを弄り、小さな鍵が二つぶら下がっているカラビナ形のキーホルダーを取り出し、それを嵐の眼前でチャラチャラと鳴らしてみせた。

 陸上部の部室は以前と寸分違わぬ佇まいで、体育会系には縁の無い嵐を落ち着かなくさせる。篠原は慣れた仕草で、ベンチの上に脱ぎ捨てられた体操着の類を一まとめにして、ロッカーの中に放り込んだ。そして、ベンチに腰をかけ悠然と足を組むと、毒気が抜かれたようにドアの傍で沈黙している嵐に、「座れば?」と対面のベンチのひとつを指差した。
「……授業、いいのか?」
「俺が勉強でいい成績とったって、誰も褒めちゃくれないよ。“芸特”に押し込められたのも、勉強なんかすんなって意味だろうな。居心地サイアク。俺、浮いてたろ? あのクラスで」
「……浮いてるっていうより、目立ってた」
 座ると同時に、篠原が足を崩して上半身を前に倒してきたので、早速殴られると思った嵐はぎゅっと瞼を閉じた。だが、予測した痛みは訪れない。薄目を開けると、篠原の皮肉めいた笑いがすぐ眼の前にあった。
「……で? どうしてこういう流れになったわけ? 江坂が、俺のことなんか言ってた?」
「三行半くらって、殴られたって……」
「その原因は、塩田と根岸だってことは、江坂から聞いたんだな?」
 嵐は、素直に頷いた。
「だけど、俺は悪くない。だから謝らない」
「謝らないけど殴られるって、どういう理屈?」
 決然と言い放った言葉を冷静に返され、声を詰まらせる。理屈など、考えもしなかった。
「一人はギターに異常な愛を抱く偏執狂、もう一人は、あの顔じゃなきゃただの苛められっ子ヒッキーって組み合わせだもんな。……ほんと俺、なんで勝てなかったんだろ……」
 対応に窮して表情を固めたままの嵐に、篠原は値踏みするような視線を這わせた。居た堪れなくなって、嵐は俯いた。
「なんとなく俺に申し訳なくて、殴られにきたの? 俺が、塩田の顔なんか見たくもないとか、考えもしなかった? つまり塩田は、自分の気持ちを晴らしたかったんだろ?」
「ち、違うッ!」
 焦ってそう切り返すが、篠原の指摘に心の中でたじろいでいた。嵐の戸惑いを読み取ったかのように一瞬ぎらついた光を双眸に宿した篠原は、だがすぐに顔を背け、校庭でソフトボールに勤しんでいる女生徒たちをぼんやりと焦点を結んだ。
「あー……意地はって馬鹿みてぇ。もう一回だけ、江坂とヤっときゃよかったな……」
 嵐は、まるで兄と対峙しているような錯覚に陥っていた。嵐にとって兄とは、押しても引いても動かない大きな岩山のような存在――それも、年齢が離れている兄であればこそだ。だが、眼の前にいるのは紛う方なき同級生。篠原の大人びた言動の一々が嵐のコンプレックスを刺激した。
「やっぱり、俺が馬鹿だった。授業、さぼらせて悪かったな。……帰る」
 篠原は、立ち上がった嵐の手首を掴み、ゆっくりと同じ視点の高さに立った。
「折角だから、殴らせてもらう」
「しのは……ッ」
 突如、胸倉を掴み上げられ、同時に咽喉仏の下に食い込んできた親指に、呼吸を塞き止められる。ベンチに足を取られてバランスを失った嵐の上半身を、篠原は空いたもう片方の手で力任せにぐいと押した。鉄製のベンチの足がコンクリートの床と擦れあう騒々しい金属音の次に、ガラス瓶の割れるような衝撃音が続く。
 ロッカーに強か打ち付けられた背中の痛みに思わず漏らした苦鳴は、さらに深く咽喉元に食い込んできた篠原の指のせいで、声にならなかった。息を奪われ、視界に霞がかかる。篠原の一連の動作はまるで長年修練を積んだ武術家のように淀みなく、嵐は、過去に拳を交わした誰よりも、篠原が手強い相手だと悟った。どちらにしろ、抗う気はない。高々と振り上げられた拳を見て初めて、嵐は、篠原の右拳に巻かれている包帯の存在を知った。
「一回で済ませてやるから」
 怪我をした右手で殴ろうというのか――だが相手を労わっている余裕は無い、嵐は顎を引き、振り落ちてきた拳を迎え入れるように左頬を差し出した。眼を瞑り、歯を食いしばる。数瞬の空白。咽喉を圧迫し続けていた篠原の指から不意に解放され反射的に息を継いだ刹那、口腔内に侵入してきた生暖かい気配に、嵐は、全身を強張らせた。


「……な……なんでッ……こうなるんだ……?」
 鋭く言い放ったつもりの台詞は、呂律が上手く回らずに酷く情けないものになっていた。空転する思考のスピードと、身体のどこもかしかもが同期していない。一体何が起こったのか――未だ現実味のないまま、嵐は、殴られるよりはるかに上回る衝撃に、激しく動揺していた。
「初めてだったろ? 男にされると、やっぱり気持ち悪い?」
「俺をからかって、そんなに面白いかよ……ッ!」
「殴るより、こうしたほうがよっぽど俺の気が晴れるんだよ。……理由、わかる?」
 考える間も与えられず「わかんないだろうな」と、切って捨てられる。とにかく距離を取りたくて身を捩ろうとしたその時、篠原は脱力したように嵐のほうへ倒れこんできた。崩れ落ちる身体を咄嗟に受け止めると、篠原の両腕が首に絡み付いてきて、また硬直した。
「い……いい加減にしろ、怒るぞ……」
「ちょっと……しばらくこうしてていい?」
 今にも泣き出さんばかりの沈んだ口調に篠原の弱気が覗いて、嵐はますます身動きが取れなくなってしまう。
「ほんとに俺、今はダメなんだよね。誰彼構わず縋りつきたい気分なんだよ……。塩田に甘えるなんて、我ながら情けないんだけど……ほら、人の体温って癒されるだろ?」
 預けられた身体に篠原の苦悩が加わって、重みが増したような気がした。動悸に拍車がかかり、額から汗が滲み出る。どうしていいのか判らずに、嵐は、視線だけを不自然に泳がせた。
「中等部からずっと、江坂だけを見てた。あんなやり方でしか、江坂に近づけなかった。セフレでいいなんて言ったのは、希望があったからだ。だけどまさか、お前らの代わりになれ、なんて言われるとはね」
「あいつッ! そんなことお前に……」
 つい持ち前の正義感が顔を出し声を荒げるが、すぐに勢いは萎んだ。嵐の耳元で篠原が息を吹きかけるように囁いたからだ。
「言われたも同じだよ。塩田と根岸が頭にチラついてオナニーできないから、俺とヤりたいって……そういうことだろ? なぁ?」
 生々しい単語に意図的なアクセントを埋め込んだ篠原の話術は、嵐の動揺を高めるのに効果的だった。
「い今、光彦はちょっと血迷ってるだけで……」
「根岸ははっきり、俺に言ったよ。“江坂を渡さない”ってね」
 ようやく篠原の身体が離れたかと思うと、息吐く間も無く「塩田はどうなんだよ?」と、鋭く問われた。
「俺達はきっと……一緒にいた時間が長すぎたんだ。だからやっぱり、光彦とは離れられない……と、思う」
 この状況から逃れたい一心で安易に搾り出した嵐の答えに、篠原は首を傾げた。
「離れられない? へぇ、そう?」
 篠原の切れ長な眼が、悪意に満たされていく。
「塩田にだけ、教えてやる。江坂はね、お前らに猛烈に片想いしてんの。それをね、自分で気が付いてないんだよ」
 嵐の頭の奥で、薄氷を踏んだような音がした。足元から這い上がってきた冷気に、身体だけでなく心臓までをも囚われる。
「てッ適当なこと言うなッ! 光彦は節操無しだから、それで……ッ!」
「節操無しが一ヶ月もオナニー我慢できるかよ。……だからさ。俺をこんな目に合わせた奴の、片恋相手の“初めて”を奪ってやったんだ。ははは、ざまあみろ、だ」
 篠原は、嵐の上着のポケットに部室の鍵を滑り込ませた。「鍵は放課後までに返せよ」と言いながら踵を返すが、忘れ物を思い出したかのように振り返り、篠原はぴたりと嵐の眉間一点を指差した。その指先がまるで鋭利な刃物と化して眉間に突き刺さったかような痛みを感じる。そして、神託を下すかの如く重々しい声音で、篠原は言った。

「さあ、悩め。塩田嵐」

 にやりと皮肉な笑いを残して、篠原は嵐に背を向けた。
 錆び付いた蝶番の軋んだ音――その不快な音とは対照的に、軽快な音を立てて部室の扉は閉まった。同時に、嵐の心に闇が訪れる。目前で天国へ続く扉が閉ざされたかのように。嵐は、闇に向けて叫んだ。
「俺はッ! もう光彦のことで悩まないって決めたんだッ!!」
 遠ざかる足音の規則性に、変化は無い。もう一度叫ぼうとしたが、声にならなかった。


 初めてキスをした相手は、やっぱり男。
 この先、忘れようもない衝撃とともに、嵐の青春の一頁に刻まれた大事件であった。
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