豪奢に飾り立てられたリビングは、悪趣味と紙一重だった。パイル織のドレープカーテンは鮮烈な赤色で、舞台の幕を彷彿とさせた。価値のありそうな置物の数々は、さすが芸能人、と普通なら唸るところだろうが、皆人はそもそも物見高い性質では無い。芸能人など、欠片ほどの興味も無かった。
「外せば? それ」
 手袋のまま、インスタントコーヒーを淹れる青に、皆人が声を掛けた。
「いいんです」
「市橋の潔癖症、有名だよな」
「潔癖症……良く、言われますけど」
 意外そうに鸚鵡返した後、「違います」と青はきっぱり言い切った。
 リビングのテーブルにコーヒーカップを置こうとした青を、皆人は手を泳がせて静止し、
「市橋の部屋へいこうよ」
 と提案した。皆人は、身体が深く沈むソファの慣れない感触に、酷く落ち着かない気分だった。
「やめたほうがいいです。……そんなことより、煙草」
 反対側のソファに軽く腰を降ろした青に、無邪気な笑みを投げ、皆人はコーヒーを手に立ち上がった。
「俺、ここダメ。落ち着かない」
「え、あの」
「やめてください」
 うろたえた青の声が皆人の後を追うが、皆人は無遠慮にズカズカと廊下を突き進み、次々とドアを開けていく。
 どの部屋も派手な赤いカーテンが吊るされていた。壁紙も家具類も赤味を含んだものばかりで、その虚飾に満ちたいやらしさに、皆人は胸が悪くなる思いだった。
 息子に『青』と名付けた母親の、赤色に拘る理由が解せなかった。
 突き当たりのドアを開けると、煙草の匂いが皆人の鼻腔を突いた。質素、というには余りにも何も無い、無機質な空間が眼前に広がり、皆人は確信した。
「見つけた」
 カーテンの色は淡いブルーだった。
 青は、諦めたように肩を落とし「コーヒー、持ってきます」とリビングへ向かった。

 窓を開け風を入れると、煙草の饐えた悪臭が和らいだ。皆人は、コーヒーを片手に青の部屋をしげしげと観察しながら、八畳ほどの室内を歩き回った。
 フローリングの床は塵一つ見当たらず、ワックスの滑った光りは寒々としていた。簡素な学習机に古びた回転椅子、整えられたベッド――ドックスピーカーも、ゲーム機も、アイドルのポスターも、本棚すら見当たらず、高校生の部屋と証明するものは、机上にきっちりと並べられた参考書類だけだった。CDや漫画雑誌が床一面を覆う乱雑な自分の部屋を思い出し、皆人は苦笑を浮かべた。
 プラスチック製のゴミ入れに入っていた煙草の空き箱に、皆人の視線が止まった。再び丹念に室内を見回すと、机の脇にひっそりと置かれたペットボトルを見つけ、皆人はふと不安げな影をその表情に走らせた。
 ペットボトルの中は、真っ黒な汚水で満たされていた。
「昨日からって……アイツ、一日でこんだけ吸ったのかよ」
 汚水に浸る吸殻は、優に五、六十本はある。
 皆人は、夏の日に見た青の白い脇腹を思い出した。あの肌が、煙に燻されて濁るかと思うと、なんとも言えない憂鬱感が、腹の底から突き上がってきた。
 青が、いつの間にかドアの側に立っていた。その顔は不愉快そうに曇り、無防備に皆人を家へと招き入れたことを後悔しているようだった。青は、玄関に置き放してあった互いの鞄を床に、コーヒーを机の上に置くと、ゆっくりとした動作で白い手袋を外した。
 血管の透けるほど薄い皮膚に包まれた女のような手が、空気に晒された。
 「自分の部屋では外すんだな」
 青は、コクリと頷くと椅子に腰を降ろし、コーヒーカップを口許へと運んだ。
 ビニール袋を弄り、青はマルボロのカートンを取り出した。丁寧に梱包を解くと、ぎこちない仕草でマルボロの先に百円ライターで火を点す。皆人は、青の細い指の動きにすっかり魅了され、気抜けしたように棒立ちしていた。
「……どうですか? ちゃんと肺に入ってます?」
 皆人の想像していた通り、青は口腔に数秒泳がすだけで、煙を吐き出してしまっていた。肺まで吸い込めば、濾過されたような淡い白煙に変化するのだが、二口目を含んだ青の唇から断続的に漏れる白色は、濃度の濃いものだった。
「あ」
 皆人は、青の手から火の点いたマルボロを強引に奪い取った。
「見てろよ」
 フィルタ部分を口に含むと、吸いなれたマルボロが、いつもより甘く感られた。
 皆人は胸を反らして一気に吸い込み、煙を口一杯に溜め込むと、即座に机の上にあったティッシュボックスから一枚引き抜き、自分の口許に押し当てた。そのまま、ゆっくり吐き出す。煙を全部搾り出したところで、皆人は、ホラ、と青にティッシュを裏返して見せた。
「たった一口で、こんだけ肺が汚れんの。よく分かるだろ?」
 ティッシュの、唇に押し当てられていた部分は、微かに黒ずんでいた。ニコチンがどれだけ肺を汚染するか、一番理解しやすい方法で、皆人は実演してみせたのだ。
「だから、なんですか?」
 青は冷淡に言い放った。皆人は、傍らのペットボトルにマルボロを押し込んだ。
「なんで……って、俺が言うのもナンだけど、吸わない方がイイに決まってンだろ? 市橋に煙草なんて、似合わないよ」
 返事の代わりに、コーヒーを啜る音が返ってきた。
「なんで煙草を吸いたくなったのか、教えろよ」
「嫌です」
 はぐらかす術は幾らでもあるというのに、青は素気無く返答を拒否した。
「三十箱も買いだめして、どうすンだ?」
 皆人は、身勝手な詮索を続ける愚かしさに、自戒の念を強くした。しかし、青の乏しい表情の変化から心情の一端を窺うのが楽しくて、もはや止めようが無かった。
「一日、三箱がノルマですから」
 青の口から飛び出す台詞は、一々突飛だ。皆人は今更驚きもせず、冷静に考えた。
 三箱といえば六十本、チェーンスモーカーとも言える数だ。高校に通いながら六十本のノルマを消化するのは、さぞ骨の折れることだろう。
 三カートンはつまり、僅か十日分の量だった。
「お前肺がんで死にたいのか? ……大体、”ノルマ”ってナンだよ」
「そう決めたからです」「誰が?」「僕です」「なんで?」
 皆人が、問いをさらに深く押し込んだとき、青の語調が崩れた。
「関係ないでしょう?」
 苛立ちがついに臨界に達したようだった。皆人はむしろ、明確な感情の変化をようやくと全面に出した青に、愛しさを感じた。
 意表外に満面破顔した皆人を訝しむような目で見、青はバツが悪そうに外方を向いた。
「手が汚れるのは嫌で、肺が汚れるのはいいわけ?」
「手袋は、汚さないためです」
 汚れる、と繰り返す青の口振りから、母親から汚物のような扱いを長らく受けてきたのだろうと、皆人は薄々感づいていた。 汚れてるのは自分自身で、周囲を汚染しないために手袋は外さない、ということらしい。
 ギリリ、と皆人の心臓が軋んだ音を立てた。
「市橋はキレイだよ。汚れなんかいない」
「放って置いてください」
 侮蔑を孕んだ冷ややかな視線で、青は真直ぐに皆人を見据えた。同情など、自己満足極まりない残酷な行為だと、青の瞳が雄弁に語っていた。
 また、皆人は胸に疼くような痛みを感じた。
「もう一度訊くけど……なんで三箱なんだ?」
 青は、付き合いきれないとでも言いたげに大きく溜息を付いた。
「僕は……毎日がつまらなくって仕様が無いんです。今から一日三箱煙草を吸えば、二十歳くらいで病気になって、この地獄のような退屈から解放されるかと思ったんです。そういう理由じゃ、いけませんか?」
 随分と気の長い、変わった自殺方法だった。
 淡々とした青の口調の底に、消しがたい暗鬱とした塊りを感じ取り、皆人の心は、虚しい空白感に領された。 同時に、青に抱き続けてきた特別な感情が、より色濃いものへと変化していくのが分かった。

「俺たちの名前、続けて読むと『青一色』になるって気付いてた? 青空みたいで、気持ち良くない? 清々しいっていうか、キレイな感じ、するだろ?」
 畳み掛けるように言葉を継ぐ皆人に、青は困惑していた。
「俺、やっぱり市橋が好きみたい」
「やっぱりって……僕は別に」
 青の頬が薄桃に染まったのを見て、皆人は物静かな笑みを浮かべた。
「手、握っていい?」
「え……?」
「いいよな?」
 皆人は返事を待たず、机の上に置かれた青の手に、優しく自らの掌を重ね合わせた。青は怯えたように、顔を引きつらせていたが、抗いはしなかった。
 
「市橋、煙草なんて吸うなよ。退屈なんて、俺がどうにかしてやるから、な?」
 微かに震える青の手は滑らかで、温かかった。
 青もきっと、同じ温度を感じているに違いない。
「……変わった人ですね」
 青はただじっと、慣れない肌の触れ合いに耐えていた。
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