RRR -RAN! RUNAWAY! RAN!-

 午後の始まりを告げるチャイムを合図に、昼休みの喧騒も静まろうという時、
「光彦。あれ……許せる?」
 純生が、光彦の耳朶を無理やり自分の口元まで引き寄せて囁いた。
「……許せんな」
 光彦が、深々と頷く。
 純生の人差し指は、本館とB棟を繋ぐ渡り廊下の先を指していた。

 B棟には、軽音楽部の溜まり場となっている音楽準備室がある。昼食をそこで済ませたのであろうギターを背負った嵐が、同じくギターを背負った見知らぬ男子生徒と肩を並べて、こちらに向かって歩いてくるのだ。
「嵐、バンドの人たちと仲悪かったじゃない? どうして今更……?」
「他に行き場が無かったんだろ。嵐にドタキャン食らった奴が、必ずしも軽音部とは限らんしな」
 険しい顔つきで廊下に佇む二人組を、どうやら嵐も気付いたようである。牽制するような視線を二人に向けてから、嵐は、当て付けがましくも傍らの某君の肩に手を回した。親しげに談笑しているように見えて、その実、余裕の無い様がありありと嵐の表情から滲み出ている。
「嵐……。僕たちを捨てて、あの人と仲良しになっちゃうのかな……」
「アイツがそんなに器用に世渡り出来るわきゃないだろが。見ろ、あの引きつった顔。あと一週間もしないうちに音を上げるぞ」
「だといいけど……僕たちだって、そろそろ限界だよ……」
 純生は悄然とそう呟き、光の粒を撒き散らすように跳ねる嵐の金髪を名残惜しげに見送った。


 光彦の予想は大方当たっていて、実際、嵐は相当追い詰められていた。音楽の話が出来る――ただそれだけに会話の接点を求めて、中等部時代から誘われていた軽音部の輪に入ってはみたものの、相槌一つ、愛想笑い一つ返すだけで嵐の精神は磨耗し、一日が終わると気疲れで食事も咽に通らないのだ。
 朋子は、愛息の危うげな様子を気遣い、食事の度に喧嘩の原因を探ってあれこれと質問攻勢を仕掛けてきたが、それもある日を境にぱったりと止んだ。事態の深刻さを認識して、これ以上追求するのは酷だと、母なりの判断が下ったのであろう。

 二学期が始まってから早二週間、事件から数えて四週間目。嵐は、徹底して二人を避けていた。自室からフライングVと必要最小限の衣服を持ち出して、母屋のリビングのソファを陣取って寝袋生活をしている。事件現場となった『離れ』には、近寄りたくも無い、というのが実情であった。
 三人で登校していた時は、朝八時二十分から始まるホームルームの丁度十分前に到着するよう、七時半過ぎの電車で通学していた。しかし今、嵐は、同じ学校の生徒は朝練に向かう体育会系の新入部員が疎らに見かけられる程度の、始発から数えて三本目の電車を利用している。しかも最短距離である西口商店街を避け、裏道を通って駅まで行き、乗る車両も毎日変えるほどの徹底振りであった。

 乱れた食生活とストレス、再発した酸素欠乏症。そしてなにより嵐を苦しめていたのは、一歩足を踏み出すごとにズシリと重量感を訴える心の奥底に鬱結したもの――親友を失ってしまったという喪失感と、もう一生、光彦と純生のような友を得ることが出来ないだろうという絶望感であった。
 九年間に及ぶ友人関係が、青春の空費だったなどと、認めたくない。
 だが、望まない性行為を強いられた屈辱を思い出すたび、光彦に口淫された時とは比較にならないほどの悔しさと怒りが腹の底から噴き上がり、それらが凄まじい感情のうねりとなって嵐の身を震わせるのだ。


 四時限目の授業に向かうためC棟にある理科実験室へと、影を引きずるような重い足取りで歩く嵐の眼に、不意に光彦の姿が飛び込んできた。ポケットに両手を差し込んで、誰かを待つ風に階段の手すりに気怠げに寄り掛かっている。
 一瞬、懐かしむように眼を細めてしまった己を戒め、嵐は、無表情を作って毅然と顔を上げ、歩調を速めた。
「嵐、無視はねぇだろ?」
 すれ違いざま、嵐の手首を引き寄せて光彦が言った。
 予想はしていたものの、光彦に触れられるなり嵐の心拍数は跳ね上がった。嵐は、ギリッと唇の端を噛み、精一杯の眼力を込めて冷殺するように光彦を睨み据えた。

「……放せよ」
 嵐の声は低く、暗い。
 光彦は、向けられた侮蔑的な眼差しに眉を顰めてから、さらに力を込めて嵐の腕を引っ張った。
「ちょっと付き合え」
「授業があるんだよッ! 放せッ! はな……ッ」
 光彦は、人目も憚らず有無を言わせぬ勢いで、嵐を半ば引きずるようにして歩き出した。
 始業のチャイムが鳴り始め、屠所へ引かれる羊のような嵐に訝しげな一瞥を投げながらも、クラスメイト達は急ぎ足で次々二人の横を通り過ぎていく。
「――分かったから放せよッ!」
 嵐は、その視線に耐えかねて、光彦の腕を振り払うと無言で後に従った。パワーでは敵わないことは、長年の付き合いで熟知している上、なにより今は、光彦に触れられるのが辛い。光彦の指に導き出された呪わしき誘惑が、嫌でも生々しく素肌に蘇るからだ。


 階段の手摺とロッカー、掃除用具入れの間にできた半畳ほどの隙間は、廊下から完全に死角となっていた。チャイムはとっくに鳴り終わり、サンダルを引きずって歩く教師独特の足音が、静まり返った廊下に反響する。その音が行過ぎるのを待ちわびたように、嵐は声を潜めて言った。
「土下座でもして、謝ろうってのか?」
 謝罪など端から期待などしていないし、そうされたところで、悪逆無道な強姦魔らを許すことなどできない。
 だがそれは、男の面目を踏みにじられた嵐の、心の建前である。あるいは二人が真摯な姿勢で謝ってくれれば、かつての友情を取り戻せるのかもしれないという淡い期待が心の隅で燻っていた。
 不毛な問いかけであることは充分に承知していたが、嫌味の一つでも言わないことには、直ぐにも拳を振り上げてしまいそうな、熱り立つ気持ちを抑制できないのだ。
「まさか」
 と、光彦が苦笑を口辺に刻んで肩を竦めた。
 余裕綽々たる光彦の態度が、ことさら嵐の気持ちを激しく波立たせる。

 懊悩するのは自分ばかりで、光彦は何も感じていないのだろうか?
 最悪のやり方で信頼を踏み躙り、侮辱を塗りたくるように親友の身体を苛んだというのに――。

「お前……、本当に狡ぃな」
 そう言われて嵐は、はっと光彦から顔を背け、ライダースの袖で頬を拭った。ほぼ一ヶ月間、錯雑する感情の渦に翻弄され続け、張り詰めていた神経の糸が知らぬうちにぷっつり切れて、嵐の頬には一筋、光るものが伝っていた。
「九年連んですっかり気を許した親友に、ごッ……強姦されんたんだぞ? 俺は、親友と童貞を……あんな形で失ったんだ……ッ! 涙の一つも出るってもんだろ?」
 辛うじて咽から搾り出した掠れ声で言い返すと、
「その代わり、恋人ができたじゃねぇか。同時に、二人も」
 得したなぁ、と空々しく言う口調とは裏腹に、光彦の視線は鋭く嵐に注がれていた。
「恋人が、強姦するかよッ!」
 思わず声を上げた嵐の唇に、光彦が「しっ」と人差し指を押し当てる。すかさず身体を硬化させ、一歩後退った嵐の背中に壁が当たった。同じ歩幅分、光彦が詰め寄る。初めて自室で光彦に迫られた時と同じ状況だと気付いた嵐の心臓は、口から飛び出しそうなほど激しく拍動していた。

「な何で、俺の身体なんかに欲情しちゃうんだ? 分かんないよ」
 光彦の、雄のフェロモンを撒き散らしているような身体ならまだ納得できる。肌は浅黒く、筋肉は全身に無駄なくついて、同性から見ても妬ましいほど魅力的だ。純生も然り。独特な透明感ある肌に均整の取れた肢体、その上に『あの』顔が乗っているのだから、誰彼問わず、性を超越して惹きつけられてしまうだろう。方や自分はといえば、性的魅力の欠片もない、まるで棒切れを繋ぎ合わせたようなひょろ長い手足を持て余している。

 語尾を湿らせて呟くように言う嵐に、光彦はやれやれと息を吐いた。
「まだそんなこと言うのかよ。 色々、全部なんだぜ? 全部ひっくるめて愛しちゃってるから、興奮するんだよ」

 ふっと光彦の眼元が緩んだのを見て、釣られて肩の力を抜いた刹那、
「……ッ!」
「嵐がさ、こうされたりして……」
 嵐は、息を呑んだ。
 光彦の手が、不意にライダースの前を割って滑り込み、狙い定めたように嵐の右胸の乳首を布地ごと摘みあげた。咄嗟に、腕にありったけの力を漲らせて光彦の両肩を押し戻そうとするが、岩のようにビクとも動かない。いくら他人の眼から遮断された空間とは言え、学校のど真ん中で暴挙に及ぶ筈は無いと高を括っていた嵐は、己の甘さを悔いた。
「よせ……たらッ……!」
 逃れようと上体を捩ると、腰から垂れ下がったチェーンが背後の壁にあたって大きな金属音を発し、嵐は、はっと身を硬直させた。こんな場面を誰かに見られたら――想像するだけで、額に冷や汗が噴出す。
 指の腹で立て続けに嬲られ、突起が硬くなったのが自分でも分かる。下腹部に灯った温みに、確かにそこが性感帯だと痛感させられる。愛撫をせがんで揺らめきそうな腰を壁に貼り付けて、嵐は、光彦の手が下肢にまで及ばないよう祈りながら、昨日の授業で習った数式を頭の中で呪文のように繰り返し唱えた。
 嫌なのに――。
「……クッ……」
 悔しげに噛締めた嵐の唇から掠れた呻き声が漏れると、光彦は唐突に嵐を開放した。快感と同時に呼吸まで噛み殺していたのか、嵐は、酸素を吸い尽くす勢いで肩を大きく上下させた。一気に緊張を解いた嵐の顎をすかさずすくい上げて、光彦が軽く唇にキスを落とす。

 濡れた瞳に困惑の色を強くした嵐は、しかし懸命に全身で光彦を威嚇し続けている。
「――と、そんな顔するだろ? もうたまんねぇんだよ、そういうの。嵐、この間気持ち良かったろ? ヤりたいだけだったらあんな回りくどいことしねぇよ。一服盛って、それこそ本気で犯しまくるぞ? 俺の言いたいこと分かるか?」
 犯しまくる、の一言に、嵐の背筋に冷たいものが走る。
 普段の光彦は居丈高で、言葉を、まるで丸めたティッシュをゴミ箱に放るが如く放漫な話し方だ。だが、今に限っては一語一句に妙な重量感があり、表情はいつになく真剣さを滲ませていて、その不可解さがますます嵐を混乱させる。
「何が言いたいんだよ……」
「嵐を、口説いてんだよ。――そりゃ、やり方は多少手荒かったかもしんねぇけど、中学ン時から二年以上、嵐のことそういう眼で見てきたんだぜ? それを気付きもしねぇお前も随分だぜ。俺の……俺らの気持ち、真面目に考えてくれたのかよ?」
 一瞬、純生の悲愴な瞳と、児戯のようなキスが嵐の脳裏を過ぎった。あの時芽生えた微かな罪悪感が、小骨が刺さったかのような気持ち悪さで、ずっと嵐の胸を疼かせていた。
 『親友』という関係性の幻想に浸りきり、のうのうと過ごしてきた罪を尚も咎め立てるように、光彦は続けた。
「どうしても許せなねぇってんなら、逃げ回ることねぇだろが。俺らにお預け食らわせたいってんなら、もう充分だよ。はっきり『嫌いだ、もう近付くな』って言やぁいいじゃねぇか」
 実に正論だ。言い返すこともできず言葉を失った嵐の耳元に顔を寄せ、声のトーンを低くして光彦は言った。
「嵐、俺が……俺らが、そんなに嫌いか?」

 好きだ。
 好きでなければ九年もべったり連んだりしない。大嫌いだ、死んじまえ、と心の中では幾度と無く吐き捨ててきたが、口に出して言えなかったのは、やっぱり憎みきれないからだ。だけど――。

 嵐にとっての『好き』は、やや過剰気味の友情、その範疇に押し止めてある。男同士の恋情、増して性行為など、そう易々とは応じ難い。
 しかし、嵐は知ってしまったのだ。同性同士で身体を繋げる方法を。光彦の愛撫に肌は素直に反応し、純生相手でも、己の生殖器官は正常に機能してしまうという事実を。
 二人を受け入れるのか、あるいは完全に拒絶するか。例えどちらに転ぶしても、四角四面に何事も考えてしまう嵐には、結論の正当性を支える理由付けが必須なのである。

 そうなのだ。二人からいくら逃げ回っても、なんの解決にもならない。どうすれば――?

「友達に戻るって可能性は……もう無いのか? 前みたいに」
 プライドもかなぐり捨てて必死の形相で哀願する嵐を、「無いね」と光彦が一蹴する。
「俺ら、高校生なんだぜ? 一番ヤりたい盛りに最高の相手が眼の前にいて、我慢しろってほうが酷だ」
 最高の相手、と褒め称えられても、嵐は戸惑うばかりだ。
「もうちょっと……時間をくれよ。俺、今はもう何がなんだか……。これ以上逃げたりしないから、お前らも、しばらく俺をそっとしておいてくれないか?」
「……しばらくって?」
 明らかに不満そうな光彦に、嵐は、分からない、と静かに首を振った。
「なるべく早く頼むぜ? それからお前、ムリして軽音の連中と付き合うの止めろ。見てるこっちが疲れる」
 そういい残して教室とは反対の方向に踵を返した光彦に、
「おい、授業は?」
 と、嵐が訊いた。遅刻確定だが、出席簿の角で小突かれる程度で許される時間帯だ。
 嵐に向き直り、光彦は仁王立ちして腰を突き出した。制服のズボンに浮き上がった見覚えある形を一見するなり表情を強張らせ、嵐は、即座に光彦に背を向けてC棟へと続く廊下を駆け出した。
「ま、どうしたって、逃すつもりは毛頭無ぇけどな……と、トイレトイレ」
 指先に嵐の触感が残っているうちに処理をしておかねば。二度もお預けを食らっている光彦(の息子)にしてみれば、授業など出ている場合では無かった。


「――げッ!」
 風呂上りに、脱衣所に据え置かれた体重計に何気なく乗ってみた嵐は、仰天して調子外れな声を上げた。
 身長百七十八センチ、体重――。
「……五十三キロ……」
 ついに五十五キロを割ってしまった。いくらヘヴィメタ五箇条に於いて肥満はタブーとは言え、これでは痩せ過ぎだ。
 嵐は、洗面台の鏡に鼻先を寄せて、首を左右上下に振り、検分するように己の顔を見た。
 激減した体重の余波は、当然、顔にも及んでいた。眼は落ち窪み頬の肉はげっそり削げ落ちて、顔色は蒼白、肌は心なしかざらついているように見える。
 そういえば、ここ数日は椅子から立ち上がるとき、立眩みを覚えることも少なくない。
 何より、身体の一部と信じて疑わなかったフライングVが、日を追うにつれてどんどんその重みを増していくのだ。まるで子泣き爺のように。

 やせ我慢も限界。このままでは『リビングデット』を通り越して『くさったしたい』になってしまう。
 嵐はそう確信して、ある決意を固めた。腕尽くで、親友を取り戻すという決意を――。

 ボディービルダーのように鏡の前でポーズを決め、勢い付けにフンと鼻を鳴らしてから、嵐は、パジャマ代わりのTシャツを頭から被った。
 目的達成のために、まずは健康回復。栄養補給、滋養強壮、筋肉増強その他諸々。健康的なヘヴィメタなど眼も当てられないが、やるしかない。最早精神的な余裕も、時間的な猶予も無いのだ。

「母さん、明日から俺の夕食、毎日モツ煮込みにして。それから毎朝ナマ玉子三個飲むから、たくさん買い置きしといて」
 夕食の片付けの途中、息子の口から飛び出した突拍子もない言葉に、朋子は眼を丸くした。
「弁当も、精の付くヤツ頼む」
 呆然とする朋子を歯牙にも掛けず、嵐は、フライングVと居間に置いてあった私物を手早くまとめ上げ、ドスドスと廊下に足音を響かせながら自室へと戻っていった。
「モツ煮込みだなんて……レシピ本にあるかしら?」
 エプロンで手を拭いながらテレビ台の脇にある本棚へと足先を向けた朋子は、困ったわ、と呟きながらも、表情はその反対に輝いていた。


 翌朝、光彦を迎えに来た純生は、首を傾げた。光彦が、朝だと言うのに一人悦に入ったようにニヤついていたからである。訝しむ純生の鼻先に、光彦が白い封筒をヒラヒラとひらめかせて見せた。
「純生、これナンだと思う?」
「手紙? 誰から?」
「嵐からのラブレター。昨日、俺ン家のポストに入ってた」
 聞くなり、純生は気色ばんで声を張り上げた。
「えぇッ!? 嵐が光彦を選んだって言うの? 狡い、また抜け駆けしたんでしょ!?」
「まぁ、見てろって」
 勿体付けるような素振りで、光彦は封筒の中から折りたたまれた紙片を抜き出した。それを広げて見せた途端、純生は魂を抜き取られたように口をぱっくり開けてから、やがて顔をくしゃくしゃにして笑い出した。
「嵐の考えることって、本当に……」
「可愛いだろ?」
 純生は、大きく二回頷いた。
 厚手の半紙には、嵐の性格を良く現したきっちり右肩上がりの文字で、こう書かれていた。



果たし状

 某月某日、十六時。稲田大橋の袂にて待つ。
 嘗ての友情と、男の沽券を取り戻すため、
 貴様らに決闘を申し込む。いざ尋常に勝負しろ。

塩田 嵐




 ――大時代な決闘状には、ご丁寧に血判付きであった。
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