俺は勝つ、絶対勝つ、俺は勝つ、絶対勝つ、俺は勝つ、絶対勝つ……。
 心の中で決意のリズムを取りながら、嵐は走る。薄雲に朝焼けが滲む空の下、ひたすら走る。
 小ジャレたジョギングウェアなど持っている筈も無く、学校名と苗字が胸元にデカデカと刺繍された青ジャージを纏い、金髪をなびかせ直走るヘヴィメタ少年。その異様さに、すれ違う誰しもが一度は足を止め、振り返った。だが嵐は、最早人目など気にしないのだ。真っ直ぐ正面を見据える嵐の目線の先にあるものは、三人で共有してきた楽しい思い出の数々――あの日々を取り戻せるのであれば、マッチョなヘヴィメタにもなろうと言うものだ。

 嵐の心の中には、一つの結論が導き出されていた。
 まだ恋愛とは断定できない揺れ動く感情も、『二人を好き』という事実に相違ない。
 二人からの告白も深層心理をさらってみれば、嬉しくないわけではない。
 己に正直になってあの事件を省察してみれば、行為そのものは純粋に気持ち良かった。
 ――もの凄く。

 では何故、これほどまでに打ちのめされたのか?

 ついこの間まで、主義主張は違えど視点は同じ高さにあった三人が、強姦事件を機に自分だけ輪の中から抜け落ちて、まるで女になってしまったような劣等感が、なにより耐えられないのだ。純生相手ならまだしも、実際、光彦を受け入れる行為は女性側のそれに他ならない。
 男同士だからこそ成り立つと盲信していた濃密な友好関係は、精神と肉体を同時に蹂躙されたことで脆くも崩壊し、嵐のプライドは甚だ傷付き、そして足場を失った。
 嵐は、つまり男として、男だからこそ、この関係性の激変に困惑を極めたのである。

 光彦に腕力で勝つことができれば。
 失墜した男としての誇りを、腕力で奪還できれば。

 足場は復活し、傷は癒される。――嵐は、そう信じている。
 せめて高校在学中だけでも友人関係を続けられるよう、条件を突きつける。――それが勝利の報酬だ。二年以上もの猶予があれば、二人をどう受け入れるのか結論も出るだろう。
 窮余の策とは言え、嵐にしてみれば一石二鳥の妙案であった。

 だから嵐は走る。起き抜けに丸呑みした生卵が胃の中で攪拌され、咽からメレンゲ状になって溢れそうになっても、嵐はひたすら走る。朝もやに霞む神社の階段を一気に駆け上がり、丁度雲間から顔を覗かせた旭日に向け両拳を振り上げ、嵐は雄叫びを轟かせた。

「俺は……勝ァ――つッ!」

 今は敗北など考えまい。後は野となれ山となれ、だ。



 嵐は、跪いてマイケルのポスターを仰ぎ、両手を胸の前に組み合わせた。
「どうか俺に勝利を下さい。あいつ等と、またただの友達に戻らせてください。お願いします」
 神は、黙して語らない。心なしかその表情が和らいで見えるのは、嵐の願望の現われか。
 果たし状を突きつけてから十日間、やるだけのことはやった。体重も、モツ煮込みと生卵をしゃにむに胃に流し込んできたお陰で、なんとか五十五キロまで持ち直した。
 付け焼刃のトレーニングのせいか、はたまたそういう体質なのか、体格に目覚しい変化は見られなかったが、筋力と瞬発力は回復した――と、思う。
 いざ出陣の時。嵐はフライングVを担ぎ上げると、勃々たる雄心を全身に漲らせ、河原へと向かった。


 夏の間、己が短命を知るが故か煩わしいほどに鳴き立てていた蝉たちはすっかり影を潜め、土手に敷き詰められていた濃緑は所々赤茶に変色して、河原は、すでに秋の様相を呈していた。どんよりと頭上に圧し掛かる暗雲は、今にも落ちてきそうである。
 嵐は、橋脚にフライングVを立てかけ、その傍らに胡坐をかいて集中を高めるように瞑目した。

「――ちったぁマシな顔色になったじゃねぇか」
 時刻は、嵐の指定した通り四時きっかりである。カッと眼を見開いた嵐の目前には、敗北など夢想もしていないと一目で見て取れる、自信に満ち満ちた光彦の顔。純生は観客然として、二人から十メートルほど離れた位置で、膝を抱え込んで座っていた。
 嵐は、何か名状しがたい心の昂りを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。

 向き合って立つ二人の間に、不気味に湿気を孕んだ風が草原を舐めるように走る。これから、どちらかが地に這うまでの死闘が繰り広げられるのだ。不意に視線が交差して、嵐は、我知らず足元から湧き上がった武者震いに全身を慄かせた。

 飛び掛らんとにじり寄る嵐を、光彦が、待て、と手のひらで制した。
「嵐、提案がある。片方が倒れるまで俺らが本気で殴り合ったら、間違いなく二人して病院行きだろ? ――で、だ。勝敗のルールを決めようぜ」
 いきなり出鼻を挫かれて、嵐は不機嫌そうに声を曇らせた。
「ルール……? なんだよ、それ」
「きっちり一時間。その間に、俺が嵐にキスできたら俺の勝ち、逃げ切ったら嵐の勝ち、ってのはどうだ?」
「なッ……!」
 どこまで馬鹿にすれば気が済むのか。
 一気に沸点を迎えた嵐は、顔を真っ赤にして抗議の怒声を光彦に浴びせかけた。
「俺が望んでるのは男同士の果し合いだッ! 追いかけっこや隠れんぼじゃないんだぞッ!?」
 光彦は、大真面目に頷いた。
「ンなこたぁ分かってるよ。俺は容赦なく殴りもするし蹴りも入れる。嵐だって、逃げ回ったりしねぇだろ? どっちにしろ、俺に負けたらお前はキスなんかじゃ済まねぇんだ。そのつもりの果し合いなら、結果は同じじゃねぇか」
「む……」
 確かに道理――その覚悟で、嵐はこの場に立っているのである。

 所詮、間に合わせの筋力トレーニング、対光彦では持久力の無さが致命的な嵐にとって、一時間の制限はありがたい。だが、何故? 光彦は、己の俊敏さを武器にしたヒット・アンド・アウェイを主とする戦法を熟知している筈だ。
 キスをするとなると、身体を完全に拘束しなければならない。瞬発力と反射神経では光彦より勝ると自負している嵐は、理解に苦しんだ。

 嵐は、まるで重戦車が八十八ミリ対空砲弾を乱射するが如き光彦の闘いぶりを、中等部時代に幾度となく目撃している。例えればヘヴィー級とバンタム級の闘い、取っ組合いなど以ての外だ。光彦の拳を一発まともに喰らえば、戦意喪失どころか、意識ごと瞬殺されてしまうだろう。重量級のパンチをクリーンヒットさせて地面に沈める――光彦の戦術はそれ以上でも以下でもないと嵐は思っていた。キスなど、むしろ光彦にとっては闘いを複雑にするだけだ。

「……敵に、塩を送ろうってのか?」
「俺にそんな余裕はねぇよ」
 棘のある言い方は、妙な真実味を滲ませていた。
 逃げる側の嵐に有利とも取れるこの提案は、その実、キスを餌に光彦の邪心パワーを引き出す諸刃の剣であることは、己の価値を知らぬ嵐には考えも及ばないことであった。

 勝敗の決め手が『キス』という点に今ひとつ腑に落ちないものを感じながらも、
「いいだろう」
 嵐は顎を引いて、獲物に狙いを定めるように光彦を睨み据えた。同様に、光彦の双眸から鋭い眼光が放たれ、嵐の牽制を事も無げに跳ね返す。
「嵐よ、お前は俺に勝てない。絶対にな」
「俺だって、負ける気はないッ!」
「なぜなら、二対一だからだ」
 光彦の声には、有無を言わせない強さがあった。光彦の勝利を確信しているかのように余裕の頬杖を付いて座っている純生に、嵐が一瞥を投げる。
「す……純生は戦力外だろ? 俺に純生を殴らせるようなマネはするなよ」
「あ、ひっどーい……」
 侮辱的な戦力外通告に一応は唇を尖らせて見せる純生だが、どちらにしろ、竜虎相搏つ闘いに参戦するつもりなど針の先ほども無い。純生は、光彦からスタートの合図を待って、腕時計に指を掛けた。
 辺りを見回しても助っ人など見当たらない。嵐が視線を戻すと、不敵に笑う光彦の顔あった。
「純生じゃない。……俺と――俺の息子だッ! 積年の恨みを思い知れ、嵐ッ!!」
 橋上を走るトラックの轟音が静寂を破るや、光彦は、嵐へとその身体を躍らせた。


 ブン、と唸りを上げて空気を切り裂き、光彦の拳は嵐の左耳を掠め、金髪を跳ね上げた。嵐は、素早くスウェーバックするとともに身体を半回転させ、無策な大振りストレートを放ってやや体勢を崩した光彦の太腿へと、力任せの膝蹴りを捻じ込んだ。刹那、カクンと右膝を折った光彦は、だがすぐに上体を引き起こして嵐に向き直る。
 見切るのがほんの数瞬遅ければ、一発で勝負は決まっていただろう。長い付き合いとは言え、拳を交えるのは初めてだ。光彦の拳は予想を遥かに上回る質量と速度をもって、嵐に襲い掛かった。避けられたのが不思議なくらいだ。
 背筋に広がった冷気とは裏腹に、嵐の内面には歓喜が、津波のように押し寄せていた。
 光彦の拳に、翳りは微塵も無い。光彦は本気だ。この果し合いの意味を知って、光彦は、男として、己を受け入れ、応えてくれている――望んでいたのは、これだ。

 瞳を爛々と輝かせる嵐の口許には、隠しようもない笑みが刻まれていた。
「随分余裕じゃねぇか、嵐ッ!」
 叫ぶなり、今度は、蹴りが嵐の胸元目掛けて飛んできた。軽やかにステップを踏み、嵐はまたもその攻撃をかわした――つもりでいたのはつかの間、光彦の足先は標的に到達する寸前に突如スピードを加速させた。避けきれないと悟った嵐は、咄嗟に腕を胸の前でクロスさせて防御の姿勢をとった。
 鈍い打撃音。嵐の細い体躯は、易々と後方へ弾き飛ばされた。辛うじて転倒を逃れるも、肺に受けた衝撃で嵐の息は奪われ、数回、しゃくり上げるような掠れた呼吸音を咽から発した後、激しく咳き込んだ。

「クソッ! 全然当たンねぇッ!」
 忌々しげに光彦が叫ぶ。
 嵐は、光彦の足が目前でゴムのように伸びてきたように錯覚していた。そうだ、ウェイトだけではない、リーチの長さが全然違うのだ。だが、腕力に慢心するあまり、光彦の攻撃は単調で雑なものに思えた。
 ――勝てる。
 息を整えると、更なる闘志を剥き出しにして、嵐は光彦に照準を定めた。

 嵐は、巧みに攻撃をかわしながら、三発に一発の割合で、確実に光彦の顎へ、レバーへと、拳をヒットさせていった。効いているのか、それとも光彦にとっては蚊に刺されたようなものなのか――表情からは推察できない。そのどちらにも思える。
 キスなど二の次、時間内に光彦を倒したい。それこそが嵐にとっての真の勝利だ。とにかく数を稼いで、根気強く光彦からダメージを奪っていくしかない。嵐は頭をフル回転させて対策を練りながら、用心深く間合いを取った。


 一時間でも、長い過ぎるかもしれない。三十分も経過した頃、嵐は、そう思った。
 全身を神経の塊にして瞬きすらままならぬこの状況は、嵐の体力を思いがけないスピードで奪い、精神をも侵蝕していく。緩慢に流れる時間とは対極に、光彦の仮借ない攻撃は次々襲い掛かり、応戦する嵐の神経は今にも焼き切れてしまいそうであった。

 互いが肩で大きく息を切りながら、緊迫した睨み合いが続く中――不意に、大きな雨粒が、嵐の頬を掠めた。まだ五時前だと言うのに、すでに夜の薄闇が辺りに垂れ込めている。二人が空を見上げると、雨粒はにわかに大群となって降り落ちてきた。
 濡れることなどお構いなしに、純生は、闘いの行方を刮目して見守っている。時折、腕時計を覗き見ては、経過時間を二人へと告げた。

 思うように嵐を捉える事ができず焦っていた光彦にとって、天恵とも言える雨だった。頻りに足を使って攻防を繰り返してきた嵐には、濡れて滑りやすくなった草むらが如何にも不利である。
 嵐の注意は光彦の攻撃をかわし反撃を繰り出す――その二点に絞られている。事実、今の嵐にはそれが限界であった。これまで怜悧に闘いを制してきた嵐ではあるが、足場にまで配慮が行き届かないのは、経験値の違いだ。こなしてきた喧嘩の数は、光彦の方が圧倒的に多いのである。

 光彦との距離を目測した後、濡れてはいないかとフライングVへ視線を走らせた嵐に、
「ギターの心配なんかしてる場合かよ」
 光彦が薄笑いを浮かべて嘲るように言った。ぎゅっと口を引き結んで、再び身構える嵐。
 じり、と光彦が右へ移動した。光彦へ身体の正面を向けるよう、嵐も右に回る。円を描くようにさらに右へと足を滑らせる光彦の動きは、嵐の眼に酷く緩慢に映った。

 ――光彦も、疲れているのだろうか?

 嵐の緊張が緩んだ、一瞬のことであった。
 二歩。予兆無く、光彦が勢いを付けて大きく踏み出した。その猛進に怯んだ嵐は、地面を蹴ってひらりと後方へジャンプした。着地点の丁度真下に、草むらに隠れて小さな水溜りが出来ていたことなど露知らず――。
 眼に飛び込んできた橋脚は、突然ぐらりと揺動し、嵐は、平衡感覚を失った。


 気付いたときには、視界一面を鈍い暗灰色を覆っていた。空だ。降りかかる水滴の大群が容赦なく頬を打ち、嵐に、勝敗の結果を知らしめた。
 ――負けた。
 仰臥した嵐の両肩は光彦の手によって地面に刺し止められ、右膝が内臓を潰すように鳩尾を圧迫している。これ以上の抗いは無様――無駄な足掻きと言うものだ。なにより、嵐の体力ゲージはとっくにマイナスを指し示している。手も、足も、思考すら最早思い通りにはならない。意地も、張り尽くした。嵐は、悔しさより先に、不思議な爽快感に支配されていた。
 光彦の顔が迫る。
 嵐は、ぎゅっと瞼を閉じた。

 遠くに純生の声が聞こえる。激しい雨音に混ざって、光彦を急かすような言葉の断片が、嵐の耳に届く。しかし、一向に光彦の唇が降りてくる気配はない。
 薄目を開けると、してやったりと勝利に陶酔して己を見下す光彦の顔――ではなく、理解の及ばない複雑な色を湛えた光彦の視線とかち合って、嵐は困惑した。
「……この期に及んで、同情かよ」
 屈辱だ、と言わんばかりに吐き捨てる嵐に、光彦は、「同情?」と、意外そうにおうむ返して、
「俺だってボロボロだ。同情なんてできるか」
 嵐の頬に降りかかる雨粒を丁寧に手のひらで拭って、光彦は苦々しい笑顔を広げた。
「なんだろうなぁ……。このまま、力尽くで嵐を手に入れて……意味あンのかな」
「知るかよ、そんなこと……」
 あと数センチで触れ合いそうな唇。喉元を押さえ付けられたような息苦しさを感じながらも、嵐は、光彦の眼から視線を外すことができないでいる。

 こんなに近くに、光彦を見たのは何日ぶりだろう?
 違う。何度も見ている筈なのに――酷く懐かしいような、言い知れない感情が嵐の内側に沸き起こっていた。
「俺ら、やっぱりやり方間違えたな。嵐のプライド傷つけて……悪かったよ」
「今更……」
 謝るなよ――。続く言葉を、嵐は咽奥に詰まらせた。
 純生の声が、数字を読み上げるものに変わった。カウントダウンが始まったというのに、光彦は眉間を苦しげに寄せて、ただ笑っているだけだ。
「――どうしたって、ただのお友達がいいんだろ? お前は」
 光彦の、濡れた額に貼りついた前髪が、何故だか堪らなく色をそそる。僅かに裂けた額から滲み出る鮮血は、手負いの虎のような凄絶さで――だが、向けられた眼差しは底知れない優しさを宿していた。
 いつの間にか四肢は開放され、自由になっていた。
 嵐の心臓が、ドクンと音を立てる。

「六、五、よ…………あ、……あぁッ!!」
 その光景を目の当たりにした純生の、驚愕の悲鳴が雨音を遮った。

 血の味のキス――。
 嵐は、自ら光彦の首を掻き抱いて、唇を押し当てていた。
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