若き光彦の悩み

 見慣れぬ部屋、見慣れぬ柄の毛布、かつて感じたことのない身体の違和感。どこからか聞こえてくる僅かな金属音が、意外なほどの鋭さで神経を刺激する。いくら眼を凝らしてみても空間認識が上手くできず、身体の中で絡み合う悪寒と嘔吐感、歪みかかる視界がいっそう嵐に現実味を失わせていた。
 胃から込み上げてくる不快感に耐えかねて、毛布から這い出しなんとか半身を起こすと、
「嵐、起きた? もう十一時だよ」
 突然視界をふさいだ純生の顔に反射的に身を引いた刹那、脳天を突き抜けるような激痛が嵐に襲いかかった。
「痛ぅ……」
「お水、飲む? 薬もあるけど?」
 そう問いかけられ、顰められていた顔が一瞬、虚を衝かれたようになり、嵐は、緩慢な動きで辺りを見回した。俯いて、視線を再び純生の顔に戻した嵐は、ようやく、ここが北軽井沢の別荘であることを理解したようであった。すぐさま顰め面に戻った嵐は、純生の差し出した冷水が満たされたグラスを取って、口へ運ぶことなく額へと当てた。
 咽喉が痛い。慣れない土地で、夏風邪でも引いてしまったのだろうか?
 だが、熱っぽいというわけでもなく――。

「胃がひっくり返りそうだ……なんでこんなに気持ち悪いんだ……?」
「なんでって――お酒飲んだからでしょ」
「酒……?」
 初期化された嵐の脳に、『純米大吟醸』の金文字がまず浮かび上がった。そういえば、と首を捻る。
 光彦がテーブルに置いた一升瓶。日本酒よりワインが好きと言った純生。それがなぜか悔しくて、アルコールデビューを決意した。フライングVに酒を注いで、それから。
 ――それからそれからそれから……?
 嵐は、頭を抱えた。
 アルコールの余熱が残る頭はすっかり鈍化してしまっているようで、記憶の断片すら引き出すことができない。その代わりに、げに恐ろしき想像が夏の積乱雲のようにむくむくと湧き上がった。
「おお、俺、なんかしたか? 記憶が全然無いんだ」
「面白かったよ、すっごく」
「お、面白かった? 俺が?」
  と訊き返して、嵐はどこか意味有りげな純生の表情を読み取ろうと、険しい眼つきで抉るようにその瞳を覗き込んだ。『面白い』などと賛評された経験は、生まれてこの方一度たりとも無い。気の効いた冗談で人を笑わせるような高度な会話術は、生憎持ち合わせていないのだ。嵐の心を領する暗雲は、さらに大きく膨れ上がった。
「……踊った、とか……?」
 問いへの答えが否定であることを切に祈りつつ、嵐は蚊の鳴くような声で訊いた。
「んーとね、お酒飲んだときの話をシラフのときに蒸し返すのはマナー違反なんだって。光彦が言ってた」
 ちらりと純生の瞳に過ぎった憐憫の情を見て取った嵐は、何を悟ったのか全身の血液が凍りついたかのように愕然として、
「……踊ったんだな……? 裸で」
 勝手に自己完結。
 嵐は、毛布を引きずりながらよろよろとフライングVの前まで這っていき、体育座りをして顔を膝小僧の間に埋めると、そのまま動かなくなってしまった。

 朝食の用意を終え、味噌汁の椀を両手に持って居間に戻ってきた光彦は、部屋の隅で背中にどんよりと重苦しいタテ線を背負っている嵐を怪訝に見た。のんびりコーヒーと啜っている純生に「二日酔いがひでぇのか?」と尋ねると、おもむろに手招きされ、光彦は汁椀をテーブルに置き顔を寄せた。
「嵐ね、夕べの記憶が無いんだって。酔っ払って裸で踊ったと思いこんでるの。面白いからしばらくこのままにしておこうよ」
  シニカルな笑いを囁き声に乗せて言う純生を見下ろし、意趣返しにしては残酷過ぎると言いたげに、光彦は憮然と腕組みをした。乱酔した挙句に裸踊りを披露したとあっては、嵐の性格からして優に一ヶ月は浮上できないだろう。そんなことは、純生も了解済みのはずだ。
「いくらなんでもそりゃねぇだろ? さっさと嵐に謝ってこい」
「えー? だって僕たち、三時間も嵐のお説教に付き合ったんだよ? それに、夕べの話を蒸し返すなって言ったのは光彦じゃない? 嵐が勝手にそう思い込んだだけで、僕、悪くないもん」
「……時々、悪魔ってのはお前の顔してるんじゃねぇかと思うぞ」
 頬を膨らませてさらに言い募ろうとした純生に、光彦は無下に背を向けた。
「おいッ! 嵐、メシだぞ」
「いらない……」
 たっぷり湿り気を帯びた返事。
「嵐のメシだけ粥にしてやる。玉子も入れてやるぞ。俺様の心遣いを無にするつもりか?」
「食べたく――」
 言いかけて、ふと顔を上げた嵐は、肩越しに恨めしげに光彦を見上げた。
「光彦……見たのか? 俺の……」
「見てねぇっつの。安心しろ、お前は脱いでもねーし踊ってもいねーよ。やたら熱っぽくヘビメタを語っただけだ」
 延々三時間もな、と光彦は心の中で付け足した。
「そ、それだけ……? 本当か?」
 深々と頷いた光彦を見て、肩を大きく上下させ安堵の息を吐くと、嵐は、次に責めるような視線を純生に送った。
「ぼ僕、何も言ってないからね。裸で踊っただなんて、ひとッ言も」
 銃口を向けられたようにハンズアップして固まった純生の頭をコツンと小突いて、光彦は「食うよな?」と嵐に上から畳み掛けた。こくりと顎を引いて、のろのろと立ち上がり、
「俺、一生酒飲まない。こんな思いはたくさんだ……」
 嵐は、項垂れて力無く呟いた。
 ヘヴィメタ上戸とでも言おうか。僅か数年後には、嵐のヘヴィメタ語りが酒席での定番となろうとは、この時、誰もが思いも寄らなかったことである。


 結局、この日も三人は一日部屋で過ごした。二日酔いの嵐は、昨夜光彦の寝場所であったロフトで横になり、吐き気に襲われるたびに忙しなく寝返りをうって、その波をやり過ごしていた。光彦は、いっそのこと吐いたほうが楽だと、枕の傍らに洗面器を置いただけであったが、純生は、三十分に一度の頻度で嵐の調子を窺いに梯子を登り、やれ濡れタオルだ水だ薬だと、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

  三日目の朝。昨晩のうちに嵐の体調も回復し、いよいよヴァカンスらしい一日を、と期待に胸を躍らせていた純生は、起き抜けに窓の外を見るなり、表情を曇らせた。バケツをひっくり返したような雨。とても外に出て行けるような雨勢ではなく、三人は、終日、ログハウスに留まることを余儀なくされた。
 容赦なく窓ガラスを叩く激しい雨、木々を轟々と揺さぶる風の音が、都会育ちの三人に、説明のつかない不安と閉塞感をもたらす。純生は、時折耳に届く遠雷に怯え、嵐の傍を片時も離れようとしなかった。この日ばかりは、三人膝をつき合わせてトランプに興じ、まるで雨音を掻き消すように良くしゃべった。
「ナンか賭けねぇとつまんねぇ」
 言い出したのは、光彦である。試しに夕食後の皿洗いを賭けて『大貧民』をしてみたら、途端に光彦がバカ勝ちを始めたので、嵐と純生は閉口した。純生は早々にリタイヤしたが、躍起になった嵐は、料理以外のありとあらゆる雑用を賭けて、思いつく限りのカードゲームで光彦に勝負を挑んだ。しかし、唯一、嵐が光彦に勝てたのは、『スピード』――動体視力と反射神経がものを言うゲームだけであった。
 そもそも、皿洗いや掃除といった雑務は嵐と純生の係りなのだが、どうやら光彦にとっては『賭ける』ことそのものに勝負の意義があるようだ。ギャンブラーの恐ろしさを改めて思い知らされた一日であった。

 四日目、誰よりも早く起きた純生は、やはり、窓の外を見やってその表情を暗くし、
「どうして曇りじゃないの……?」
 誰へともなく怨めしそうに言った。
 昨日の悪天候が嘘のような快晴であった。まだ陽も昇りきらないというのに、鬱憤を晴らすかの勢いで鳴き立てる蝉の声と、ロフトから響く光彦の(限りなくイビキに近い)ラウドな寝息が相俟って、極めて耳障りなアンサンブルと化していた。
「らーん……起きて。今日こそ釣りに行こうよー……」
  純生は、すぐ傍らの布団に寝ている嵐の肩を揺さぶった。
「う、ん……?」
 うっすら瞼を開いた嵐は、夢うつつな状態で窓の外へと顔を向け、
「俺、無理……コゲる……」
 と、うわ言のように謎の言葉を呟いて、また夢の中へと引き戻ってしまった。
 がっくり肩を落とし、エアコンのスイッチを入れると、
「午後からでいいから、行こうね? 絶対だよ……?」
 言いながらも、然して期待もしていないようなつまらなそうな顔で、純生は小さくため息を吐いてから、嵐の布団に潜り込んだ。
 九時を過ぎたというのに、寝覚めの良いはずの嵐がなかなか起きないのも無理はない。嵐が一方的に白熱した光彦とのトランプ勝負は、明け方まで続いたのだからして。


 午後一時過ぎにようやく起床した面々。朝と変わらず、威烈を振りかざす夏の太陽は、外出すれば日焼け汗だく必至であることを窓から訴えてかけていた。純生が生まれて初めて食すというカップ麺を昼食に啜り、その後は若人らしからぬ覇気の無さで、各々のツールを持ち出してひたすら陽が翳るのを待った。純生だけがそわそわと、嵐が身動きするたびにパソコン画面から視線を外し、その顔と窓の外とを交互に窺っては、何か言いたげな眼差しを嵐へと向けていた。
 丁度、古びた振り子時計の短針がカチャリと音を立てて五時を指したとき。
「温泉くらい行こうか……。せっかく軽井沢まで来てるんだし」
 日焼けを恐れるあまり、湖畔釣りを渋ったことへの罪悪感が、嵐にこの提案を促した。純生の気配には気付いていたのだ。
 純生は、聞くなりぴょんと跳ね起きて、ノートパソコンの電源を落とし、驚くほどの素早さで着替えやタオルを小さな荷物にまとめた。時代めいた黒電話の受話器を取った純生に、「タクシー禁止だぞ」と嵐から制止の声がかかる。
「こんなところまで迎えに来てくれるタクシーなんてないよ」
 祖父と温泉にいくときはいつも、近くにある旅館の、家族用の露天風呂をリザーブするのだと純生は言う。贅沢だ、と嵐が反対するも、純生は、こればかりは譲らないと頑としてはねのけた。
「だって、ヘンなおじさんにヘンな眼で見られるんだもん。絶対ヤだ、知らない人とお風呂入るなんて」
 聞けば納得の理由であった。朝の満員電車で、純生に擦り寄ってくる怪しげな男を、嵐と光彦がブロックしたのは一度や二度ではない。
「ビショーネンってのも大変だな」 と、他人事のように言う光彦の横で、嵐は、なにやら微妙な顔つきである。
「僕、この顔きらい。良い思いしたことないし、この顔のせいでみんな勝手に、僕っていう人間は『こうだ』って決め付けるの。トイレの事件が良い例だよね」
 嫌な記憶が蘇ってきたのか憤然と語気を荒げて、純生は、電話に当り散らすようにダイヤルを回した。
 予約を終え、受話器を置いた純生は、訝しむ嵐の視線に、にっこりと余裕の笑顔で応えた。なるほど、と何か得心した顔で頷き返す嵐。そのやりとりを、光彦は不思議そうに見ていた。


「で、近くの温泉旅館っていうの、どのへんなんだよ?」
 玄関を出たところで、なんとなく不安に駆られた嵐が尋ねた。純生は、「十五分」と即答したのち、一拍置いてから「車で」、と小声で補足した。
 徒歩で三十分ぐらいだろう、と高を括って歩き出した嵐の背後から、
「おい、歩くつもりか? 三時間はかかるぞ」と、光彦。
 人の歩速が時速四キロだとして、車を時速四十キロと仮定すると単純に十倍=一五〇割ることの六〇で二時間三〇分。左脳派光彦にはわけも無い計算である――が、これも平坦な道を前提とした時間。
「三時間ッ!?」
 嵐の声は裏返った。
 純生が予約時間を八時にしたのは、旅館でスリッパ卓球でもやるつもりだろう、程度にしか考えていなかったのだ。嵐は、麦藁帽のつばを引き上げて、未だ山の稜線から高い位置にある太陽を仰いだ。
「嵐ッ! どこいくの!?」
「悪い純生。俺、無理」
 ログハウスへと一歩踏み出した嵐に、らぁーん、と情けない声を上げて純生が縋る。『まったり』はもう充分楽しんだ、最後の夜に思い出を、と願う純生の表情は必死である。見かねた光彦が、
「ヒッチハイクでもしてみるか……」
 と思いつきを口にした。行きしな、バスを降りてからここまでの道程で、一体何台の車とすれ違ったのか――光彦とて大して期待はしていないが、そうでも言わなければ純生が納得しそうもない。嵐は、公道に出て三十分待っても車が捕まらなかったらログハウスに戻ることを純生に約束させて、光彦の提案に乗ることにした。

 細い砂利道を降り、アスファルトの舗道に出て一分と待たずに、エンジン音が聞こえてきた。これ幸いと顔を輝かせたのもつかの間、S字のカーブから地を這うように姿を現したのは、見たこともない形の真っ赤なスポーツカーであった。車体の大きさから二人乗りに間違いなしと、三人は一台目を見送ることにした。
  疾風の如く通り過ぎていったスポーツカーは、軽妙なブレーキ音とともに二十メートルほど離れた位置で停車し、ブルンと一度エンジンを吹かしてから、同じく疾風の如くバックで三人の前まで戻ってきた。
 スルスルと助手席のウィンドウが開き、
「坊や達、乗っていく?」
 顔を出したのは二十代後半らしき女性。派手なサイケ調のショールをヘアバンド代わりに長いカーリーヘアをまとめ、刑事ドラマの主人公が掛けるようなサングラスが、小さな顔の三分の一を覆っている。胸元の大きく開いた真紅のワンピースに、男性的なデザインのサングラスが不思議と良く似合っていた。
  『坊や』と呼ばれたところで腹も立たない。多分美人だろう、美人に違いない、絶対美人だ――そう三人に確信させてしまうほど、嫌味のない自信と余裕を、態度の端々に醸し出している。
「でも、三人も――」
  合図を送ったわけでもないのに、何故ヒッチハイクと分かったのだろうと戸惑いがちに言う嵐に艶やかな微笑みを返して、彼女は運転席から身を乗り出し、慣れた仕草で助手席の背もたれを倒した。リアシートと呼ぶにはあまりにも狭い空間。体格からいって、必然的に光彦が助手席となる。ドライバーは女性――嵐は、光彦の反応を窺おうと顔を上げたが、光彦に例による過剰な拒絶反応は見られず、むしろしげしげと、観察している風に女性を凝視している。
「光彦、いいのか?」
 光彦の返答を待たずに、純生は、初対面の女性に臆しながらもペコリと頭を下げて、リアシートに身体を潜り込ませた。もう一度、嵐が「いいんだな?」と問うが、光彦は、「うーん……」と曖昧な返事をしただけであった。

  湿気を恐れ泣く泣くフライングVを置いてきたことが偶然にも幸いし、純生ですら窮屈そうに縮こまる猫の額ほどのリアシートに、細い手足を折り込んで嵐はコンパクトに収まった。
 最後に、どっかり助手席に腰を降ろした光彦は、女性に微笑みかけられてようやく、その顔から引き剥がすようにして視線を窓の外へと移した。だが意識は未だ女性に向けられたままであることは、シート越しに見える横顔から推察できる。女性との距離一メートル以内だというのに、光彦は冷や汗ひとつ掻いていない。先ほどまでの視線も、妙に熱っぽかった――ような気がしないでもない。ついに異性への目覚めかと嵐が疑ってしまうほど、連んで十年目にして、光彦が女性に対し初めてみせる反応であった。
 緩やかに車を発進させた女性は、
「しばらくぶりに火を入れたから、ちょっとエンジンの調子が悪いわね。さすがに男の子三人じゃ重いわぁ」
  と苦笑しながらも、次第にアクセルを深く踏み込んでいった。カーブに差し掛かり、ブレーキングと同時にヒールトゥで素早くシフトダウン、するりとステアリングを切りコーナーを抜けていく一連の動作は、誰の眼にも華麗に映った。

 優れたドラテクのお陰であろう、車は、十分とかからずにひなびた温泉旅館の玄関前に滑り込んだ。車を降りたのち、嵐が代表して丁寧に礼を言うと、
「帰りは下り道だから大丈夫ね」
  彼女は軽く三人に手を振ってから、思わず見惚れるほどの素早さで狭い敷地内で車を切り返し、あっという間にカーブの向こうへと消えていってしまった。
 香水の残り香も、どことなく清々しい。ややもすると胡散臭いほどの『いい女』ぶりは、高校生――ことチェリー二人にとってはなかなか新鮮な衝撃であった。
 嵐は、早々に太陽から逃れたい気持ちを抑えて、なぜか険しい顔つきで佇んでいる光彦が何か言い出すのを辛抱強く待ったが、どうやらその自我は真紅のスポーツカーとともに彼方へ走り去ってしまったようであった。余計な詮索は慎んだ方がよかろうとは思ったものの、自制が効いたのも僅か数十秒、精一杯のさりげなさを努めて、嵐は光彦に尋ねた。
「恐怖症、治ったのか? ……一目惚れとか?」
 付け足した一言は、そうであって欲しいという嵐の願望も含まれていた。
 光彦はピクンと片眉を跳ね上げて、往なすように嵐を見、
「一目惚れだぁ? ナニ言ってんだ、――ありゃ、『ひろさん』じゃねぇか」
「……は?」
 嵐と純生は顔を合わせて、「まさかぁ」と、声まで合わせた。純生宅の慇懃無礼お手伝い、『ひろさん』と言えば、ノーメイクに黒淵眼鏡、長い髪を色気の無いゴムで後ろに束ね、服装は、地味を絵に描いたような女性である。長年、居を共にする純生ですら、笑顔など一度として拝んだことがないのだ。
「絶対違うッ! 僕、八歳のときから一緒に住んでるんだよ?」
「賭けてもいいぞ。俺ぁ女と必要以上に接近しないようにしてっから、なんだかんだで良く見てンだよ」
 ギャンブラー光彦の『賭けても良い』は、『神に誓って』と同義である。つまり光彦は、『ひろさん』かどうかを見極めることに意識を奪われ、道中、発作どころの騒ぎではなかったのだ。
 しかし、女スパイ紛いの七変化で暗躍する家政婦など、ドラマか映画での話。嵐と純生は、スポーツカーの消えた方角を茫然と見て、やや長い沈黙の後、「まさかぁ……」と、もう一度、呟き声を合わせた。


 時間はまだ六時前。丁度、旅館の食事時で泊り客の予約がぽっかり一時間空いており、三人は到着まもなく貸切の露天風呂へと案内された。昨夜の連敗のリベンジに、待ち時間で卓球勝負を挑もうと内心燃えていた嵐は拍子抜けしたが、メインはやはり温泉。中流家庭の狭い湯船に体育座りをして浸かる日々に辟易としていた嵐にとって、温泉の広い湯船は憧れであった。
 青々とした芝に飛び石の置かれた小道を抜けると小さな脱衣所があり、その向こう側は高い竹柵に囲まれていた。扉の前で立ち止まった純生は、くるりと光彦に向き直り、その胸元に手のひらを当てて、思いきり押し戻した。
「まかせたぞ」
 純生の肩をポンと叩き、嵐は、広い湯船に思いを馳せて、一人先に脱衣所の暖簾を潜った。

「サベツだサベツ。サベツ反対」
 むっつり口辺を引き下げて、戸を開けるなり開口一番に光彦は言った。不満を露わにしながらも、純生に指示されたとおり二人が脱衣所に入ってからきっちり十分後、しかもノックしまでして入ってきたのだから意外に律儀である。扉を叩く音を合図に、嵐も純生も、入り口に背を向けて、檜風呂の縁に身体を貼り付けている。なにしろ光彦のことだ、タオルで前を隠すなどというデリカシーを、期待するほうが非現実的である。
 しかし、他人の持ち物に興味津々のお年頃、嵐も純生も青少年なりに、『見たい』欲求は堪えがたいものがあった。だが、光彦のは駄目なのだ。篠原と絡み合う姿がもれなく想起されて、その生々しさがチェリー二人には具合が悪い。トランクス姿の光彦の……ですら、しばらくの生活に影響を与えたほどのインパクトであったのだから。

 立ち上る湯気は申し訳程度で、茶褐色だが湯の透明度は高い。二人がしっかり海水パンツを履いているのは、一見して明らかだった。
「……ありえねぇだろ、温泉で」
 光彦は、さらに苛立ちを強くした声で言い、積み上げられた木製の風呂椅子の山を蹴り崩して、その一つにどっかりと腰を降ろした。カランから勢い良く噴出した水の音を聞いてようやく、嵐と純生は湯の中へと手足を伸ばした。
「そのロープが二百海里線。光彦はこっから向こうに入ってね」と、純生。
 広い背中を二人に向けて、わしわしと泡だらけのタオルを脇腹に走らせていた光彦は、ちらりと湯船に視線を流した。水面を分断するロープのようなものを確認すると、
「俺の領海はえらく狭いじゃねぇか……。なンだってんだ、一体……?」
 光彦は、脱力感たっぷりに言った。
「だって光彦、ホモなんだもん……」
「ホモホモ言うな。お前ら知ってるか? サベツ用語だぞ?」
 唐突に、話題は社会問題へと発展した。
「じゃあ……、ゲ……ゲイ?」
 純生の可憐な唇から飛び出したその一言に、嵐は眼を瞠った。ホモのそれとは比較にならない、なんと重厚感と現実味を伴う語感。シャワーで全身の泡を流し終えた光彦が立ち上がったのを認めて、二人は慌てて俯いた。
「ホモでもゲイでもねぇよ、俺は俺だ。悪いか」
  無駄に威張った態度で、だが光彦は純生の指示通りにきちんと領海範囲内にその長身を沈めた。
  ここしばらくの光彦のブームが『サベツ』を連呼することであったことから、嵐と純生には酷く矛盾に感じる台詞であったが、同時に、その『光彦らしさ』にねじ伏せられるように納得させられてしまっていた。己が同性愛者であったのなら、こうはいかないだろう。この強さ――あるいは単純さを、少しでも分けて欲しいものだと嵐は思った。
 
「あー……やっぱり足伸ばして風呂入れるって最高だな……」
 しみじみ言って、嵐は大きく伸びをした。山の斜面を一望できる方角を残して、高い竹柵に三方を囲まれた檜風呂は、泳げるとまではいかないまでも貸切にしては広い。
「すごい。嵐、腹筋割れてる」
 毎晩百回の腹筋の成果を純生に指摘され、嵐は得意げに頤を反らし、自らの腹部を撫でさすった。
「ヘヴィメタは腹筋割れてるのが基本、でもムキムキじゃダメなんだ。難しいだろ? 本当は胸毛もちょっと欲しいんだけど……たぶん生えてこないだろうなぁ。兄貴も親父も生えてないし」
 ラウドロックファンの中でも、こと嵐の嗜好が偏っていることに自覚がないのは、全て修也の誤った教育法のお陰である。純生は、自らの腹部に淋しげな視線を落として、
「パソコンオタクは割れてないのが基本かも……」と呟き、ふと怪訝に顔を上げた。
「ねぇね、どうしてヘヴィメタは日に焼けちゃいけないの?」
 何を今更、とこれ見よがしな溜め息が返ってきた。
「よく焼けた顔から白い歯がキラリ☆なんてギタリスト、絵になるわけないだろう? 日焼け顔にこの金髪で、仕上げにアロハでも着れば、サーファーの出来上がりじゃないか。俺にベンチャーズでも弾けってのか?」
 などと言いつつも、小学校時代に『ダイヤモンド・ヘッド』のテケテケ音を練習したことがあるという、ヘヴィメタにあるまじき過去を持つ嵐であった。
 聞きなれぬ横文字を嵐が口にしたことで、また演説に発展することに怯えた純生は、両手のひらにすくった湯を嵐の顔へと思い切り引っ掛けた。濡れて顔一面に貼り付いた長い金髪を後ろへと流し、嵐がキラリと瞳を輝かせる。
「……やったな、純生」
「テクノをバカにした罰」
 実は根に持っていたらしき純生はペロリと舌を出して、すでに攻撃体制に入っている嵐から逃げるように、タオルで顔を覆った。あとの展開は言うまでもなく、趣きある露天風呂は、小学校の夏のプールと化す。湯を掛け合いながら楽しげにじゃれ合う二人を、光彦は、輪に入ることもできずに無表情で眺めていた。
 純生が、ちらちらと横目で光彦を窺いながら、嵐の耳元へと顔を寄せ、なにやら囁きかけている。頷いた嵐はにんまり笑って、桶を静かに湯船の底へと沈め――。
 せーの、の合図をともに、大量の湯が光彦へと襲い掛かり、続いて、水分をたっぷり含んだタオルが、ビシャリ、と音を立ててその顔面に貼り付いた。普段の斜に構えたクールさを微塵も残さず、すっかり濡れ鼠となり、タオルを顔に貼り付けたまま固まっている光彦を指差して、嵐と純生は、水面を叩いて大笑いした。ゆっくりと顔のタオルを剥がし取った光彦の眼は据わっており、次にくるであろう反撃に備えて、二人は盾代わりに湯桶を構えた。

 ――が。
 二人の眼が逃げる余裕もなく、唐突に光彦は、ザッと湯から上がった。先ほどまで顔面にあったタオルでしっかり前を隠している。
「……ビール飲みてぇから、先でるぞ」
 意表外の反応が返ってきて、嵐も、純生も、ポカンと口を開けて動作を凍らせたまま、光彦が扉の向こうに完全に姿を消すまで、その均整のとれた肢体を眼で追ってしまった。
 僅かに少年期の不安定さを残しながらも、すらりと長い手足を覆う浅黒い皮膚の下には、骨格の動きに沿って幾筋もの美しいラインを描く筋肉。広い背中には、幼少時代からの喧嘩の足跡だろう歴戦の勇士さながらの古傷が数箇所見て取れた。褐色の肌に残された傷跡はまるで勲章のように雄々しく、濡れ羽色の髪から滴る水滴は陽光を弾いてきらきらと光っていた。

「あれで色白だったらなぁ……いいヘヴィメタになれるのに……」
  嵐がまったくもって見当違いな感嘆の息を吐く横で、
「なんか光彦、機嫌悪い。傷つけちゃったかな……?」
 と言う純生の頬は、薄桃に染まっていた。湯の温度は低く、のぼせるにはまだ早い。嵐は、無意識に己の熱を確かめようと頬に手を当てた。
「……奴のどこに『傷つく』なんて繊細さがあるんだよ」
 昨夜のトランプ勝負に加え、腹筋で負けたことに心中で切歯扼腕していた嵐は、忌々しげに吐き捨てた。明日から、毎夜腹筋二百回を密かに心に誓う嵐であった。


  タオルで身体を拭くのもそこそこにTシャツを頭から被った光彦は、かごの中にある新しいトランクスに伸ばした手を、止めた。脱衣所の外からは、再びじゃれ合い出した二人の楽しげな声、まだまだ出てくる気配は無い。
  一度は下腹部へと伸びた右手を意志の力で強引にかごへと戻したことで、光彦は、酷く苦心してトランクスを履かねばならない羽目に陥った。
 一箇所に鬱滞した血液を開放する術は、健康な高校生男子なれば誰でも知っている。それは光彦にとって極めて自然に覚え、定期的に行われていたに過ぎない単純な行為であったが――。
「――クソ、どうしろってんだよ」
 こと人の機微や己の感情について深く考えることを苦手とする光彦にとって、突然湧き上がった罪悪感は、理解の及ばないものであった。その不可解さに苛立つ。ふと眼についた体重計を勢いに任せて蹴飛ばした一瞬後、光彦はつま先を掴んで飛び上がった。しゃがみこんで、足の親指に向けてふーふーと息を吹きかける。己の間抜けさに苛立ちも倍増し、光彦は、犬の唸り声のような声を上げた。
 爪の間に滲んできた血――それでも、ジュニアは治まりそうもない。

 すっかりのぼせた顔で、いちご牛乳を片手に休憩室に戻ってきた純生は、マッサージチェアで上体をゆらしながら缶ビールを傾けている光彦を見つけて、まだ不機嫌は続いているのか、顔色を窺うように覗き込んだ。
「光彦が本読むなんて珍しいね。何読んで……」
 言いかけて純生は、いちご牛乳の紙パックをするりと手から落とした。
「――嵐、……らーんッ!!」
 時ならぬ純生の叫び声に驚いて、嵐がどたどたとジーンズ一枚に頭からバスタオルを被った状態で自販機コーナーから飛び出してきた。
「ど、どうした?」
「光彦がッ!! 光彦が……ゲーテ読んでる……ッ!!」
「げー……――嘘だろッ!?」
  見れば光彦は、確かに、古びた文庫本を顔の前に広げていた。小学校の時分から、『こくご』の教科書すらまともに開いたことのない光彦が、ゲーテを読んでいる。長い付き合いの二人には、吃驚の声を上げるに値する光彦の姿であった。
「……どうしたんだよ。真夏にヒョウでも降らせるつもりか?」
「えれぇ暗い話だな。お陰で治まったぜ」
 何が治まったのか。つまりナニが治まったのである。
 休憩室の片隅に据えられた本棚に、光彦が戻した本。その背表紙には、『若きウェルテルの悩み』と記されていた。


 気温はまだ二十度以上あったが、夕陽に美しく染め上げられた空を仰ぎながらの帰り道は、それほど苦痛ではなかった。幸せそうに微笑む純生の顔が、嵐の頬を緩める。来年も来ようね、という純生に、嵐も光彦も、素直に頷いていた。
  ログハウスに到着したころには、辺りをすっかり漆黒の闇が覆っていた。最後の夜を飾るために残しておいた花火の袋を手に、テラスから庭へと移動した三人は、筒物の花火で一頻り盛り上がった。手持ち花火へと持ち替え、その本数が減っていくにつれ、三人の口数も少なくなっていく。
 まだ夏休みは二週間近くある。しかし、今日が最後の夏――そんな空虚感に、三人は支配されていた。

 あれほど綿密に計画を立てた旅行だというのに、そのほとんどが遂行われることなく終わった、このマイペースぶりといったらどうだろう? 誰に歩調を合わせるというわけでもなく、否、合わせていたとしても結局、時間は心地よく消化されていく。
 嵐は牡羊座のA型、純生は乙女座のAB型、光彦は天秤座のB型。趣味、価値観、家庭環境――全くといって良いほど共通点は無い。おまけに、必要以上に特異な個性の持ち主であることは、各々に自覚があるのだ。

 白銀の火花に浮かび上がる輪郭をなぞるように、嵐は、それとは気付かれないよう俯き加減に、光彦と純生の横顔を見た。
 例えば今、この場に違う誰かが居合わせたとしたら? 
 嵐は、顔と名前が一致する数少ないクラスメイトを思い浮かべてみた。次々に大きなバツで消し去られていくラインナップの最後に、篠原輔の顔。
 ぶるんと頭をひと振りし、嵐は、篠原の影を追いやった。
 むしろ誰にも邪魔をされたくない、とまで考えてしまう己が不思議でならない。もしかしたら一生、こんな風に連んでしまうのではなかろうか――?
 ふとそんな思いを嵐が巡らせていた矢先、
「俺ぁお前らの飯炊き、もうやりたかねぇからな」と、絶妙なタイミングで光彦が言う。
  光彦も同じようなことを考えていたのだろうと、嵐の眼元が綻んだ。笑い声につられて顔を上げた光彦と視線がかち合って、嵐は慌てて顔を伏せ、新しい花火を袋から一本取った。
 火を点けてもらおうと、立ち上がって光彦と向き合った時――突如、大きな影が嵐の眼前を覆った。

「う――、わゎッ! な、何すんだよッ!!」
「テストだ、テスト。ちっと大人しくしてろ」
  嵐は、夜目にも解るほど顔を真っ赤に染めて、手足をバタつかせている。純生は、 とっくに鎮火した花火を手に持ったまま、眼を見開いてフリーズしていた。
「やッ……野郎に抱きしめられて大人しくしてられるかッ! ははは離せッ!!」
  言われるままに光彦は、二十秒ほどであっさり嵐を解放し、
「……ひッ!」
 テラスへ逃げ込もうと駆け出した純生の襟首を掴んで強引に引き寄せ、背後からその華奢な身体を抱き込んだ。
「嫌だぁーッ! 嵐、助けてッ! 光彦に襲われるッ!!」
「よせったらッ!!」 
 嵐が光彦の肩に手を掛けると同時に、やはり光彦はあっさり純生の身体を開放した。
 半泣き顔の純生が、嵐の胸に飛び込んでくる。すっかり臨戦態勢で身構えた嵐は、純生を庇うように光彦の前に立ちはだかった。
「一体、何のテストだよッ!?」
 しかし光彦の意識はここにあらず、顎に手を当てて、しきりに首を右に左にと捻っている。
「……この程度じゃ解ンねぇな……」
 一体どちらにジュニアは反応したのか。抱きしめてみれば自ずと答えが分かるとテストしてみたが、ますます混乱するばかりであった。光彦は、そこで思考をピタリと止めた。光彦の右脳に電気信号を走らせる回路は極細のスチール線らしく、すぐにショートしてしまうのだ。
「だから何が!?」
 嵐は、右拳に力を漲らせて、無反応でいる光彦の肩をガッシリ掴み、無理矢理こちらへと向かせた。
「今度こんなことしやがったら……ぜ、絶交だからなッ!」
「……絶交だぁ?」
 小学生かよ、と鼻で哂って肩を竦め、白けた表情で二人にそれぞれ一瞥をくれ、
「お前ら、早くオンナ見つけろ。――知らねぇぞ、どうなっても」
 と捨て台詞を残して、光彦は一人ログハウスへと消えていった。

 茫然と佇む嵐と純生の頭の中は、真っ白である。
 騒動で茂みに身を潜めていた虫たちが、再び、美しい羽音の重奏を始めるほどの時間が経過し、ようやく我に返った嵐は、言いようもない虚脱感に襲われがっくり膝を折って地面にヘタりこんだ。
「どうなっても……って、……どうなるんだよー……光彦ぉー、なんのテストだったんだよー教えろよー……」
 硬派を気取る嵐らしからぬ、哀韻を含む情けない声が暗闇に響いた。
 
 この日の夜。純生は、光彦に怯えるあまり嵐の布団へと潜り込み、嵐も、拒まずに腕を差し出した。
 嵐も、純生も、あらぬ想像が駆け巡る頭を整理できずに、圧し掛かる闇に耐えていた。
 空が白むまで寝付けなかった二人に対し、光彦だけが高鼾であった。

 人生は、われわれの不死不滅の幼年期である。
 ――ゲーテ(一七四九~一八三二)

※ひろさん(らしき人)が乗っていた車は、ロータスエラン・プラスツー……のつもり。
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